終章 祝言
霜月に入ってまもなく、冬馬は正式に次期中町奉行を拝命した。年明けとともに、役目替えや任地替えがあるため、多くの者が裃姿で将軍に拝礼する。その中に次の岩村藩主を幕府から正式に命じられた岩村正景の姿があった。脇腹のため半分しか血が繋がっていない筈だが、横顔がどこか似ている優しげな容貌の正景が冬馬を見て、深く頭を下げた。
顔を上げ再びこちらを見つめる正景の視線は酷く真剣なものだった。
だが何も言わず、冬馬もかける言葉が見つからず、そのまま城を辞した。
屋敷に帰ると、冬馬を待ち構えていたように、奈津が座敷へと呼んだ。
裃から着流し姿に着替えて、座敷へ行くと、床の間を背にして正座した母がいた。促されるまま、母親の正面に冬馬が座ると、奈津は開口一番こう告げた。
「冬馬、あなたお見合いをしなさい」
「は?」
咄嗟のことで冬馬は母の言葉が理解できなかった。
「母上、今なんとおっしゃいました?」
「あなたに縁談が来ました。だから相手の方とお会いなさい」
冬馬は目を屡叩かせた。
つまりは嫁を取れと言っていると理解した冬馬の答えは。
「お断わりします」
即答した冬馬に驚きもせず、奈津は言った。
「それは無理なの」
「どうしてですか?」
「奉行への就任が正式に決まったからよ」
「私が奉行になることと、嫁を取ることは別問題でしょう」
「奉行職は人格的に優れたものがなるべきだって言うのは、あなたもわかるわね」
冬馬は苦い顔で頷いた。
「つまり嫁も来ぬような半端者には奉行の資格がないと言うのですね。なら妻帯者から奉行を選べば良かったでしょう」
榊家では冬馬を数えると三代続いて奉行職に就いているため、世襲のように見えるが、無論そうではない。基本的に一代限りの役職である。ただ、榊から出た奉行が先の二代ともわりに優秀だったため、褒美代わりに考慮されたのだ。つまり冬馬が自ら望んだから、先代、先々代の功績も評価の対象になって、他の希望者より有利になった。一瞬不公平のように思えるが当然の如く冬馬自身も能力が基準以上でなければ、奉行にはなれない。
逆に二代続けていい仕事をしていても三代目がぼんくらなら、いくら当人や親が望もうと絶対にお役は回って来ない。
本人の評価を出すためにはいくつかの項目があるが、安定した家庭を営めるという点も、当然数えられると奈津は説明した。
「ですが父上が母上を娶られたのは、奉行になってからだと聞いています」
「だから大変だったそうよ。雨と霰のように降ってくる縁談を断るのが。だって婚礼の夜に言ったもの。これで二度と縁談に悩まされることはないって、しみじみと」
「つまり断れるわけですね」
「冬馬、あなた私の話をちゃんと聞いていた? 大体何と言って断るの?相手にも逢わずに。それとも、もう既に嫁にしたい娘でもいるの? なら連れてきなさい」
無論、冬馬にそんな相手がいないことは百も承知だ。むすっと黙り込む息子に奈津は言った。
「このお話は《姫》のお声掛かりでもあるの。逢った上で、あなたがどうしても気に入らないなら断ってもいいとまでおっしゃられているわ」
《姫》とは恭之介が奉公していた大名家の姫君で、出奔した若君の妹にあたるお方だ。榊家の主家となるため、確かに無碍に断れる話ではない。
「わかりました。逢うだけでいいのですね」
観念した冬馬に奈津は追い打ちをかけた。
「遅かれ早かれ嫁を迎えなければならないのです。諦めなさい」
斯くして五日後、北海神宮内の神沢家の私邸にて、冬馬は見合いをすることとなった。
☆
神沢の屋敷は北海神宮の神殿の裏手にあった。屋敷の北にある長い廊下から白樺林が見える。境内には良く来るのだが、この辺りまで足を踏み入れることが希なため、まるで見知らぬ異国に迷い込んだ気がした。
先を歩いている神沢俊尋が冬馬の足音が途切れたことに気づき、振り返った。
「迷子にでもなったような顔をしてる。図体ばかりでかくなったが、そんな顔をするとまだまだ子供だな」
「よして下さい。恭之介でもあるまいし」
「そうだな。これから嫁をとるのだし」
「私は断るために娘に逢うのです」
「それは勿体ない」
「ならば、神沢様の嫁になさればいい。大体なんで奉行だからといって、なんで嫁をとる必要があるんです」
子供の如く、拗ねた顔の冬馬に、神沢は苦く笑った。
「私が代わりにかの娘を娶っても良いのだが、そうしたら他でもないそなたに恨まれるだろうな」
意外な台詞に冬馬が不審そうな顔で女好きの宮司の顔を見上げた。
「絶対に冬馬の気に入る娘御だ。……仮に逢って気に入らぬというならば、包み隠さず言うが良い」
そういえば、母もただ逢えと強制しただけだ。必ず嫁にせよとは言わなかった気がする。
そう思い返す冬馬だが、何せこの話を持ってきた相手が悪い。断るにしても、簡単には行かぬだろう。
苦い顔で考え込む冬馬に神沢が言った。
「心配せずとも、気に染まない縁談を無理に結ぼうという気は相手にもないだろう。こちらも無理強いはしない」
「それはそうでしょうけれど」
なおも不満顔の冬馬に神沢は穏やかな笑顔を見せた。
「他でもない冬馬の嫁取りだ。そなたが気に入らないのを無理を通すつもりはない。世間ではそんな例も多々あるがな。けれど、本人にその気がないことを無理やり通しても、傷つくのはそなたであり相手の娘御だ。あんないい娘を振ったお前がどうなろうと構いはせぬが、可愛い娘が嘆くのを許す訳にはいかぬからな」
いつものように軽口を叩く神沢だが、その眼差しはいつになく真剣だ。
「何、私の託宣ではこの縁談良縁だ。安心するがいい」
「神沢様自身がそう思ったからではないのでしょうか」
神沢は邪気のない笑みを浮かべた。いつもの女好きのふざけた笑顔ではなく、かといって商売用の笑みでもない。あまり見せないがそれは、確かに心からの微笑みだった。
「そうかもしれぬ。だがそれで冬馬が幸せになれるなら良いではないか」
性格がけしていいとは言えないが、親友の息子である冬馬達を実の子供のように慈しんでくれているのは、本当だ。だからこそ、冬馬は無言で頷いた。
「では行くか。女をあまり待たせるものではないからな」
いつもの口調に戻り神沢は告げると、先に歩き出した。
☆
長い外廊下を歩き、この屋敷の主はある部屋の前でふと立ち止まった。
作法通りに腰を落として襖をあける。冬馬がそれに従って中に入ると、神沢は相手が立ち上がるのを目だけで押さえた。
「お待たせしました。私はこれで」
初対面である二人を互いに紹介もせず、神沢は部屋を出た。
二人きりで取り残され、冬馬はしばし茫然としていた。
それから我に返りると相手に向き直った。
事ここに至っては、じたばたしても始まらない。それには男である自分がまずはしっかりせねば。
そう心に決め、冬馬は自ら先に声をかけた。
「お初にお目にかかります。私は榊冬馬と申す」
その言葉を俯いたまま聞いていた娘が、顔を伏せたまま淑やかに答えた。
「北原伊勢守俊雅の娘、千早と申します」
聞き覚えのある声、そして名前に冬馬は我が耳を疑った。
それに確か北原家の娘は一人きり、他に娘はいなかったし、その名も千早ではない。
「今、なんと」
「千早と申します。榊様」
以前聞いた時よりも若干声が高いが、その口調は間違いない。
冬馬は興奮で声が上ずるのも構わずに言った。
「面をあげられよ」
娘は静かに顔をあげると、じっと冬馬を見つめた。
武家娘の姿であるが、その娘は紛れもなく岩村千早だ。けれど千早は死んだはずではないのか。
「千早殿か?」
千早はこっくりと頷いた。
「生きていたのか、本当に?」
なおも問いかける冬馬に、千早は笑顔を向けた。
「お疑いなら触れてみてはいかがですか」
ある意味大胆な申し出を口にして、千早は冬馬に手を差し出した。
ためらいがちに伸ばした冬馬の指先が千早と手に触れた。その手ををそっと握る。確かに暖かな生きた人間の温もりだ。
冬馬は千早の顔に視線を戻した。手を握り返す千早の頬に一滴の涙が落ちた。その瞬間、冬馬は千早を引き寄せ、その腕に抱いていた。
千早は突然の出来事に少し驚いた様子だったが、抗わず冬馬の胸に身体を預けた。
「無事で良かった」
冬馬は思わずそう口に出した。
「冬馬様こそ」
その言葉が耳に届いた途端、冬馬は腕の中の千早を見つめた。
「あんなの掠り傷だ。大した怪我ではない」
「それでも私は……」
そう言いかけた千早の口を、冬馬はその唇で塞いだ。
裏の林で枝の雪が落ちる音がした気がした。
☆
「それにしても、千早殿が生きているなら何故、あんな使いが来たのです」
千早の身体から腕を外し、座り直し居住まいを正しながら冬馬は言った。
「使いに行った用人は私の守役です。私が選んだ殿方を自ら確認したかったのでしょう。それに今回の件を表沙汰にせず内々に済ませるためには、どうしても私は一旦死ぬ必要があったのです」
そう告げ、千早は今回の一件の詳細について冬馬に語った。
「とはいえ、私も現実はどうであれ、事実上死んだ身になるわけですから、願いを一つ叶えていただくことにしました」
冬馬は一旦納得しかけて、はたと思い立った。
「私がこの縁組みに不承知なら、どうするつもりだったのだ」
「どこか尼寺にでも入るつもりでした。だって、私はこの度の密命で命を投げ打つ覚悟だったのです。正景さえ藩主になれたら自分はどうなっても良かったし、どのみち今後のことを考えた時、私は尼になって政治的に利用されない手段を講じるしかないのです。確かに祭り上げられたとはいえ、哲之信殿を切腹に追い込むほどの証拠はない。ですが今回の一件で藩政から一切身を引き、仏門に入るという沙汰が下されたので、問題はありません」
「ならば」
なおも言いかけた冬馬の言葉を遮るように、千早は告げた。
「それに、私は冬馬様以外に嫁ぐ気は毛頭ありませんから、いいのです」
そう強気に断言した後、千早はふと顔を伏せた。
「千早殿?」
「冬馬様が、この縁談に依存があれば、無理は申しません」
「いや、そうではない」
冬馬は慌てたように言った。
「冬馬様は、やがてお奉行様となって、この北都の町の用心棒になると伺いました」
「ああ、そうなるのだな」
千早の例えに思わず笑みを零しながら冬馬は答えた。
「それを承知の上で、お願いがあります」
千早は真剣な眼差しで冬馬を見た。
「これからも、千早の用心棒をしていただけませんか」
冬馬も真剣に答えた。
「今度は只という訳にはいかぬがいいか」
冬馬の答えに怯みながらも千早は頷いた。
「千早殿を我が妻に迎える。これが条件だ」
自分から言い出したことなのに、千早は茫然とした。
「依存はないな」
「……はい」
俯きながらもしっかりと答えた千早を冬馬はじっと見つめた。それからおもむろに、その手をつかむと体を引き寄せた。
――表では少し風が強くなったようだが、二人は寒さなど感じなかった。お互いの温もりに包まれ、心までも結ばれていたから。
☆
榊冬馬の町奉行就任の少し前の大安吉日。冬馬と千早の婚礼が執り行われた。
質素倹約を旨とする武家に置いて、婚礼とて華美にはならない。それでも清楚な白無垢姿の千早は誰が見ても三国一の花嫁だった。
その艶姿を隣に置き、冬馬は先日の岩村正景の真剣な眼差しを思い起こしていた。
姉が選んだ伴侶を見定める視線だったのかと今にして痛く感じる。
まずは自分が幸せになろう。固めの杯を交わしながら、そう冬馬は心に誓った。
我がことのように喜ぶ自らの半身は、自分自身の幸せを捜しに、明日、冬馬と入れ替わるように南国に旅立つ。
恭之介の南国行きには、やがて施療所を引き継ぐために蘭学を学ぶという目的がある。
だが裏の理由はこの北の地から南の果てまで《あの方》を捜すという意味である。
無論、冬馬は幾度となくあの夜の話を恭之介と右京にしている。けれど、自らの主君と思い定めた人間に突然理由もわからず目の前から去られた気持ちがそれで癒される訳ではない。
冬馬は今自分が命を捧げるべき役目を得て、伴侶となる妻を手に入れた。
それは誰もが手にできるとは限らないものでもある。
ある意味一生かかって捜して生きて行くものなのだろう。
恭之介と一緒に右京もまた南国に旅立つ。右京は冬馬が学んだ示現流を身に付けると息巻いているが、それが本心ではあるまい。
冬馬としては去り行く半身と親友の明日にただ幸あれと祈るだけだ。
この都の用心棒は確かに自分が引き受けた。だから、何も心配せずと、旅立てと。
☆
翌朝、夜明け前に榊恭之介と水澤右京は、南国に向けて旅立った。
二年後、五体満足に帰ってきた恭之介は施療所に戻り、町奉行である兄の右腕として、蘭法医として活躍を始める。右京も女好きが直らないまま、相変わらずの気ままぶりだ。
尚、宮司の託宣通り冬馬と千早は幸せな夫婦になったが、無論誰にも依存などあろうはずがなかった。
