第五章 秋月
その晩、施療所は未曾有の怪我人を相手にすることになった。
「相手を痛めつけるならまだしも、こんな土産などいらぬのに」
医者とも思えぬ物騒な台詞を、かなり本気で吐いたのは他でもない河口真之介である。
妻の奈津の報告を受けた中町奉行榊周防により差し向けられた百戦錬磨の捕り方が、地獄絵さながらの光景に、思わず二の足踏んだ。
よくよく見ればその半数以上は単なる峰打ちで済んでいるとわかる。だが、少しでも息のあるものはどんなに懇願されてもけして殺してはならぬと、普段から奉行である周防に厳命されていなければ、武士の情けとばかりに止めをさしてやりたかったものも十指に余る。
あの状態でよくもまあ一人の人死にも出さなかったものよと、後世伝説に残るほどの惨状だった。
「ま、冬馬にたいした怪我がなくて良かったではないですか」
と、殊勝にもそう口には出すが、恭之介とて気持ちは同じである。
まして、留守番を押しつけられた挙句、生きているのが不思議な怪我人ばかり運ばれてきたら、真之介としては癇癪の一つも起こしたくなる。
これで、真之介に千早を巡っての立ち回りがなければどうなっていたか、思わず思い浮かべ背筋が寒くなった恭之介だった。
「お願いですから叔父上、瀕死の怪我人に八つ当たりしないでくださいね」
思い余ってそう口を滑らした愛弟子を、真之介は怒鳴りつけた。
「莫迦野郎! 私を誰だと思っている!」
どうやら恭之介は真之介の逆鱗に触れたらしい。
怖々と首を竦める恭之介に、都一の名医と目される男は続けた。
「冬馬が、せっかく滅多にお目にかかれぬほどの数の怪我人を、この叔父のために自ら拵えてくれたんだ。可愛い甥っ子の土産、河口真之介の名にかけても死なせてなるものか」
確かに物は考えようである。ターヘル・アナトミアが著されるのは、遥かな先の出来事で、下手すると腕の良い医者よりも、怪しげな破戒僧や妖艶な美人祈祷師が持て囃されていた時代だ。
生きた人体解剖の手本が、目の前にあると考えた方が、ずっと建設的ではある。治療に託けて、暢気に筋肉構造なぞ見てる暇がないのが玉に傷だが。
「ここにいるのも、紛れもなく可愛い甥なんですがね」
怪我人を半分ほど手当し終えた時、恭之介がぽつんと呟いた。
「何を言う。お前はこの私の可愛い弟子ではないか。さあ、次の患者に掛かるぞ」
真之介におそらく他意はないはずだが、恭之介は深い脱力感とともに溜息をついた。
そこに冬馬の看病を任せたはずの水澤右京が戻ってきた。
「莫迦兄はどうした」
「客が来たんで、遠慮してきた」
あっさりと答えた悪友に恭之介が尋ねる。
「客? だけど、寝てるんだろう?」
右京はこっくりと頷いた。
「まあ、自分のせいで冬馬があんな目にあったんだから無理はないな。別に跡が残るような怪我もしてないんだが。それでも見た目は派手に血を浴びてるし。なんせここについた途端、人事不省で倒れちまったから、血止めしかしてないし。死んじゃいないんだと納得させるのは、流石の俺でも苦労したぜ。……冬馬の奴、起きたら二三発殴ってやる」
恭之介は苦笑いしつつそう答えた。
「じゃあ、殴り終わったら私も呼んでくれ」
「お前の分は残しておいてやるよ」
すると若者の会話に真之介が割り込んだ。
「千早殿が見えてるのだな。右京、後でここに寄ってくれるように伝えてくれ。無論、千早殿の気が済んでからでいいから」
「別に怪我はしてないのでしょう」
また叔父の悪い癖が出たと思いつつ、恭之介は告げた。
「わかってないな、恭之介。千早殿の健康に何の憂いもないことが、ひいては冬馬の治療に結びつくわけさ」
「……そういうことにしておきましょう」
恭之介は苦笑を零した。
「確かに、長旅の疲れもあるでしょうしね。でも叔父上、その前に我々が過労死しないことを願いたいです」
「全くだな。右京、その男が暴れないように押さえてくれ。ここにいる以上、私の助手だからな」
右京は憮然とした顔をしたが、冬馬の寝ている恭之介の私室に戻ろうとしなかった。
☆
施療所と廊下で繋がっている河口家の屋敷の片隅の部屋に、榊冬馬は寝かされていた。
ここは双子の弟である恭之介の私室であり、身を横たえているのは彼の布団である。実際、冬馬のために寝具一式を用意するだけの人手も時間もなかったのだ。ある意味、自業自得と言わざるを得ない。何しろ運ばれた怪我人の数が半端じゃなかったのだから。他の怪我人と同じように施療所に転がされないだけましだったと言える。
ともかく、水澤右京の決死の説明で、冬馬が半死半生でも、ましてや死んでる訳でもないとわかった千早は、それでも泣き出しそうな瞳で、無数の手傷を負った用心棒を見つめていた。
おせっかいの用心棒。本当にそうだ。
誰が、こんなになるまで戦えと頼んだのだ。
こんな目に合わせたくなかったから、ついてくると行った冬馬を拒んだのだ。
「莫迦です。自分だけ逃げ出しても恨まなかったのに」
昨夜の嵐、そして刺客。
押しかけ用心棒で、それ故に無償。
少しでも頭があるなら、刺客について、千早を売り渡すだろう。
冬馬は、肝心の事情など何一つ問い質そうともせず、そう千早の名さえ素直に信じたではないか。
千早も何故か冬馬に対してだけは、初めから本名を明かした。
他には何一つ告げられないのなら、せめて本当の名を教えたかったのか。
それとも。
千早は、死んだように眠る冬馬の髪に、ためらいがちに手を伸ばした。
「本当は私の正体にとうに気づいていたでしょうに、最後まで私の嘘に付き合って下さった。優しい方」
起きる気配などまるでない青年の頬にそっと触れる。
そして。
千早は眠る冬馬の唇に、自分のそれをそっと重ねた。
☆
施療所まで、町奉行である榊周防直々に千早を迎えに来た。これから、岩村藩上屋敷に送り届けるために護衛として参上したのだ。
周防は忍び姿で編み笠を被っていた。千早の姿に気がつくと、軽く傘を挙げて、会釈する。
千早は初対面の侍のその端正な顔立ちに、冬馬と似た部分を見つけ、ふと微笑みを零した。
町奉行の役宅に千早が保護された時にはまだ周防は帰宅していなかった。役宅からこの施療所までは、我が子の無事を確認に来た奈津と一緒だった。
奈津は水澤右京から冬馬の無事を知らされると、怪我と疲労のため死んだように眠る嫡男の寝顔だけを見て、千早を残したまま役宅に戻った。そのため千早が周防と逢うのはこれが初めてだ。
「初にお目にかかる。冬馬と恭之介の父、榊周防だ」
「では、町奉行の榊様」
思わず畏まる千早に周防は笑みを浮かべると首を横に振った。
「確かに町奉行などもしているが、今ここにいるのはただの榊周防だ。町奉行として、表立ってこの件に関わる訳には行かぬのでね」
そもそも町奉行が武家に関わるのは支配違いだし、事を公にすると岩村藩自体が改易になり兼ねない。
「榊家には私、何から何までお世話になりっぱなしで、申し訳ありません。冬馬様には、あんな怪我までさせてしまって」
血まみれ横たわる冬馬を思い出したのか、千早は泣きそうな顔で周防を見上げた。
周防も一向に目覚めない息子の様子は見ている。血まみれのその衣のほとんどが敵の返り血だと周防は職業柄すぐに見抜いたが、それでも惨状が酷いことに変わりはない。
だからこそ、千早が気に病むのも非常によくわかる。それに、逆に言うとこういう顔をする相手だからこそ、冬馬も命がけになったのだろう。
「そんな顔をされるな。冬馬が自らが納得の上、危険に飛び込んでいったのだ。譬えそれで命を落としても、それは冬馬の責任だ。だから気にすることはない。それに、冬馬は生きているのだろう? 返り血は酷いが、手傷はそうでもないと、真之介から聞いた」
「ですが、一歩間違えば命を落としてました」
そう訴える千早に周防は頭を下げた。
「ありがとう」
「どうして、榊様が頭を下げられるのです」
「自分のことだけで精一杯のはずなのに、不肖の息子をそこまで思いやってくださる。親として、とてもありがたいことだ」
こんな親に育てられると、冬馬のような伸びやかで快活な性格の青年になるのだろう。
妙に納得してしまった千早である。
「私がこうして怪我一つせずにいるのは、冬馬様を初めみなさまのお陰です。礼をいうのはこちらの方です」
いくら言葉を尽くしても言い足りない風情の千早に周防は微笑みを向ける。
「岩村家上屋敷の門前までは、この私が冬馬に成り代わって一命かけて守り届けよう」
「よろしくお願いいたします」
千早は深々と頭を下げた。
千早は中町奉行役宅で湯を使い、侍姿に戻っている。周防はしばし何か言いたげにその姿を上から下まで眺めたが、それについては口に出さずにこう告げた。
「では、参るとしよう」
「はい」
外はもう宵闇深く大通りの店も全て戸を閉ざしている。
提灯を手に一歩先を歩いている周防は、千早を振り返って言った。
「千早殿も長旅で疲れているのだから、本当は明日にした方が良いのだが」
「ご迷惑をかけて申しわけありません」
「私は役目柄、夜歩きは馴れている。それに今夜は忍びのいい口実なるから、奈津にも大きな顔ができる」
おどけ顔で笑う周防に千早は思わず笑みを零した。
「そう、その顔だ。屋敷に帰ったら、もうそなたを守りたくても守ってやれぬ。だが、それでも行かなければならぬのなら、せめて屋敷の前まででもそうしている方がいい」
千早は冬馬を思い出していた。
山小屋で刺客に立ち向かう前に、冬馬は千早に優しく微笑んだ。山を降りて、たどり着いた宿で、千早を眠らせる時もそうだった。
そもそも、二人の出逢いで、刺客に襲われていた千早を助け逃がした時も。
いつでも危険に立ち向かう前、冬馬は穏やかに笑っていた。それはけして簡単に出来ることではない。でも、それが自分の選択なら、そうあるべきなのだろう。これで逢えないかもしれない大事な人に向けるなら、なおさら。
「冬馬様はいい父上を持たれて、羨ましい」
千早は素直にそう口に出した。
「私はいい父親ではない。そうありたいと願ってはいるが」
周防は千早から視線をそらし、足もとを照らす提灯に目を落とした。
「でも、それは親なら誰でもそう思うのではないのか。千早殿の父上にしても、我が子のためにいい父親たらんと思っているはずだ」
「そうでしょうか」
周防は行く手に見えてきた籏本屋敷の門構えを提灯で照らした。
「千早殿はお父上が嫌いか?」
向かって左手の門にそっと掛けられた《岩村》の表札の文字を確かめながら、千早は首を横に振った。
「そうであろうな。それでここまで命がけで帰ってこられたのだから」
周防の言葉に深く頷くと、千早は笑顔を浮かべようとした。冬馬のように見るものを安堵させる春風の如き笑みには程遠いけれど。
周防がまるで手本のように冬馬に受け継がれた優しい微笑を浮かべる。
「千早殿は精一杯頑張ったのだから、きっと天が助けてくれる。だから、絶対大丈夫だ」
そう断言し、安心させるようにその肩に手を置く。
町奉行として表立って動けない上に、裏で画策する時間もなかった周防だから、千早への励ましは裏づけのないある意味無責任なものである。けれど千早には通じたようだ。
千早が無理に浮かべた強張った笑みが自然なものに変わる。
それを見届けると、周防は屋敷の扉を強く叩いた。
「開門願う! 岩村千早殿をお連れした。開門!」
白洲で鍛えた張りのある声が、丑三つ時の夜空に響き渡る。
宿直の中間が門の横の木戸から顔を出し、傘をあげて顔を見せた周防に気がつき、慌て顔でとって返す。
やがて松明が焚かれ、ぎいと音がして、扉が開かれた。
出迎えた用人が、編み笠をとってすっくと立った忍び姿の周防にまずは目を向け、それから背後にいる若侍を見た。
「榊周防と申す。岩村千早殿確かにお送りした」
「当家用人の矢部助左エ門です。榊様といえば、町奉行様ではないですか」
「今は忍びだ。夜回りのついで寄ったまでのこと、気になさるな」
「爺、ただ今帰参した。父上は?」
その声に、用人はまじまじと千早を見た。
「爺、私がわからぬのか? こんな姿をしてはいるが、耄碌するにはまだ早かろう」
「……姫様! 良くご無事で」
惚けたように膝から崩れた用人を置いて、千早は屋敷の中へ駆け込んだ。
周防はその背を、驚きもせずに、けれど真剣な眼差しで見つめた。
周防の眼前で屋敷の扉がゆっくりと閉ざされる。
手出し無用とでも言うように、暗い夜空にその音が低く響いた。
☆
十歳までこの屋敷で育った千早だ。増改築を頻繁に繰り返していない限りは、屋敷の間取りは変わっていない。記憶を辿りながら、廊下に所々にある灯明をを頼りに足を進める。記憶通りなら、母屋の東側にこの屋敷の主の寝所があるはずだ。
「姫様! お待ちを」
我に返って追いかけてきた用人の声を背に、千早は角を曲がった。
襖の前で立ち止まり、腰を落として、意を決して声をかける。
邸内の騒ぎで主が起きたのか、襖越しに明りが漏れていた。
「お休みのところ、失礼致します。千早、国許よりただ今帰参致しました」
ややあって中から声がした。
「入れ」
千早は襖を開けた。
「父上」
二年前に国帰りの際に逢って以来、久しぶりの親子の対面だ。やっと追いついた用人が、千早の開けた襖をそっと閉めた。
「何というなりをしているのだ」
岩村駿河守景綱は、姫であるはずの我が子の姿を認め眉を潜めた。
「申し訳ありません。着替える暇がなく」
「そなたが国許を逐電したとの報せは受けていた。何が起こったのだ」
「それについてはお人払いを」
部屋にいるのは確かに駿河守と千早の二人きりだが、廊下には用人が控えているし、警護の侍が庭先にもいるだろう。用人の矢部助左エ門は千早の守役であったし、よもやとは思うが、用心に越したことはない。
「わかった。助左、しばらく下がっておれ。誰も近づけてはならん」
「はっ」
矢部が立ち上がり廊下を歩き去る気配がした。
「これでよいか」
千早は深く頷くと、居住いを正し、夜着の上から羽織を纏った駿河守を真っ直ぐに見た。
「国許で謀反の動きがあります」
「謀反とな? わが岩村家には男子は一人。争いの種などないではないか」
「私の婿として、哲之信殿を迎えるのです」
駿河守は虚を衝かれた顔で黙り込んだ。
「正景は当家嫡男と言えど、脇腹の出でしかも病弱。亡くなられた叔父上の忘れ形見の哲之信を時期当主という動きがあってもおかしくないでしょう」
「哲之信も脇腹だ。……なるほど、だから紛れもなく正室との間に生まれたそなたと娶せるというのか」
「私は正景にあとを継がせたい。母は違えども可愛い弟です。叔父上は家臣の妻に乱暴狼藉を働き、逆上したその家臣に斬り殺されたと聞きます。その結果産まれた哲之信殿には罪はないとはいえ、岩村家家督を継ぐ権利はない。いくらその家臣が次席家老であり、正景の母である於福の方が元は町人の娘であっても」
「哲之信は岩村家の不始末で産まれた。だから岩村家の血筋であることを認めるため兄の脇差を守り刀として与えたのだ。それが仇になったか。だがそなたはどうして都に出てきたのだ。正景派がそなたの命を狙ったのか? 哲之信を擁立する一派にとってはそなたは必要であろう」
不審顔の駿河守に千早は昂然と言い放った。
「両方から、命を狙われました。反正景の一派にして見れば、結局父上の子供がいなければいいのです。私を殺してその罪を正景派になすりつける。姉殺しの罪を着せることも出来るし、それにあの子はこんな姉でも慕っているから、私の命を盾にしたら、跡目を譲ると言うでしょう」
「正景は無事か?」
千早は俯いた。
「千早?」
「少なくとも私が国許を出立するまでは無事でいました。その後のことはわかりませぬ」
「……そうか」
駿河守はそう言ったきり、しばし目を閉じた。
「私は若殿としての正景の命を受け、謀反の証であるこの血判書と正景の花押入りの密書を都の父上の元に届ける役を承りました」
千早はそう告げると、立ち上がると帯を解き始めた。着流しで身に纏っていた衣を脱ぐと、襟を解き始めた。万が一捕まり、身ぐるみ剥がされたとしても、容易には見つからぬよう、用心を重ねた結果だ。
「父上、どうぞ」
次席家老を始め、五名の藩の重役の名前が血判とともに書き綴られている。
「父上?」
「そなた、ようやく帰ってきたところですまぬが、死んでくれぬか」
言うなり、駿河守は刀掛けから愛刀をつかむと、鞘を取り払った。
仄暗い寝所に、燈火に反射した刀の鈍い光が閃いた。
☆
七日後の夜、岩村家からの使いが榊家を訪れた。内々に知らせたい議、これありとのことだった。使いは先般、岩村家の門内で周防を出迎えた岩田家用人、矢部助左エ門だった。
用人は家老に次ぐ役職であり、その家からの正式な使者と言える。
榊家には、施療所から戻ってきた冬馬もいて、周防ともに矢部を迎えた。
「榊冬馬殿ですね。千早様が大変お世話になったそうで、あらためてこの爺から、深く御礼申し上げます」
冬馬は無言で頭を振った。
「ところで、内々に報せとは」
「我が主君、岩村駿河守景綱からの書状を持参しました」
「それは、町奉行としての私への書状でしょうか?」
「いえ、千早様を冬馬殿に代わり送り届けて下さいました、榊周防殿にとの仰せです」
「さようですか」
静かに周防は返答すると、差し出された書状を開いた。読み進めていくうちに、周防の顔が次第に青ざめていった。
「この文に書かれてることは、真なのですか」
「はい」
矢部は一言そう告げると、押し黙った。
「父上?」
ただならぬ空気を敏感に読み取って周防と矢部の顔を交互に見る冬馬に、周防は黙って書状を手渡した。
奉行としての周防ではないにせよ、岩村家から榊周防宛に下された書状だ。読んでも構わぬのかと、冬馬は矢部に視線を向ける。矢部は黙礼でそれに応じた。
二度読み返して、信じがたい内容に我を忘れ、冬馬は矢部につかみ掛かった。周防が止める間もなかった。
「駿河守が千早殿を斬られたのか?」
「全ては藩のためだと言われて。わしが駆けつけた時は殿の寝所は血の海で。無論、表向きは病死として幕府には届けております」
「そんな……」
千早を守るため冬馬は命を賭けたのだった。無事に上屋敷にさえ帰れば、千早は安全なのだと頭から信じていた。
周防が矢部の羽織の襟をつかんだままの冬馬を引き剥がした。
「そこまで冬馬殿に思われたなら千早様も本望でしょう。ありがとうございます」
喉に痣がつくほど力で、襟元を締め上げられておきながら、矢部助左エ門はそういって深々と頭を下げた。
「謀反人は捕らえられたのですか?」
「この北都にいるものに関しては全て。国許で謀反に加担したものについても直に」
「さようですか」
「霜月の初めには、嫡男正景様が正式に岩村家の次期当主とし、将軍家に認められる予定。それまでには藩内の混乱を収めなければなりません」
「我が子に手を掛けられたのだ。駿河守も後には引けぬでしょうな」
茫然としている冬馬をよそに、周防と矢部は淡々と話を続けている。
まるで出来の悪い田舎芝居のようだ。
「矢部殿もご多忙でしょう。わざわざのお越し、ありがとうございます」
「こちらこそ、突然伺いまして、申し訳ございませんでした」
矢部はそう言って一礼すると立ち上がった。
「……矢部殿。せめて千早殿の墓に参りたいが、国許ですか」
「さよう。千早様は荼毘に付され、この爺自ら遺骨を国許に運びに手厚く葬って参りました」
がっくりと頭を垂れる冬馬に、矢部は告げた。
「確か、霜月の初めには冬馬殿も正式に次期町奉行として、上様とお会いになるのでしたな」
追従のつもりかと冬馬は矢部を睨みあげた。矢部はその眼差しを静かに受け止めて、何故か深く頷いて見せた。
「亡き千早様のためにも、お父上に負けぬいいお奉行様におなり下さい。この北都のよき用心棒に」
そう言い残し、矢部は榊家を辞した。
周防は酒の支度を言いつけると、悄然としている息子に言った。
「あの用人、そなたに逢いに来たのだな」
「何のために」
冬馬の疑問に答えず、周防は運ばれてきた銚子を手に取った。まずは、冬馬の杯に酒をそそぐ。慌てて自分の銚子を掴んだ冬馬に首を振り、自分の杯にも酒を注ぐ。
「いずれにしろ、これは岩村藩の問題だ。我々にできるのはこうして千早殿の弔い酒を酌み交わすくらいのこと、そうではないか」
「そうですね」
これで終わったのだ。そう思うしかない。
昔、《あの方》が言った通り、他人の軌跡を辿ることさえ叶わぬのだから。一度は交わった千早と冬馬の運命も、千早がいなければ二度と交わることはない。
それにしても、たった二日ともに旅しただけなのに、この空虚な気持ちは何なのだろう。 いくら飲んでも酔えぬ気がしたが、冬馬は何度も杯を重ねた。
泥のような眠りに落ちた冬馬を、夜明けの白い月が天窓から照らした。