ACT.1 莉奈の部屋で
「珍しいものあるじゃない」
莉奈の部屋に久しぶりに偲と美夜が遊びに来たのは、七月に入ってまもなくのことだった。
きちんと畳まれてコート掛けの下の傘置き場に立てかけられているのは、この部屋には妙にそぐわないビニール傘だった。その隣にはスタンダードなバーバリー・チェックの長傘がいつもように置いてある。
「見ていい?」
一見コンビニでも売ってる普通のビニール傘のようだけど、何か模様が入っているように偲には思えた。
こっくりと莉奈が頷くのを待って偲は傘を広げた。
「夕張黒ダイヤミュージアム、ふーんこの間、夕張で買ったんだ」
「うん、匠君とお揃いだよ」
無邪気に莉奈は答えた。
それを耳にした美夜の表情が微かに揺らぐのに気がつき、偲は心の中で舌打ちをした。
北原莉奈の付き人である西野匠が名を偽って、美夜と付き合っていることを莉奈だけが知らないでいる。
どうして偲が知っているかというと、美夜に相談を受けたからだ。女子中学生の美夜と高額紙幣を挟んだ危険な付き合いをしている男が、よもや本名を名乗るはずもない。それでも正式な仕事に偽名を使うわけには行かなかったのだろう。二人がホテルで過ごしている時に、男の携帯を莉奈が鳴らした。留守電に吹き込まれたメッセージが毎日学校で過ごす親友の声じゃ、洒落にならないだろう。動揺した美夜が偲に相談したのが、良かったのか、悪かったのか……。
偲は何もなかった顔でビニール傘を閉じた。
「そういえば、この間面白いことがあったのよ」
急に無口になった偲をフォローするつもりで美夜は口を開いた。
「この間、竹本さんに夜ばったり逢って、家まで強制送還されたわ」
「由之君、優しいからね」
「びっくりしたわよ、急に私の傘の中に入ってくるんだもの」
「スヌーピーのワンポイントの傘だっけ、確か青い傘」
記憶をたどるようにに莉奈は首を傾げた。
「そうよ。良く覚えてるわね。それをね、人に見られたみたいで、しばらく偲、機嫌悪かったのよね」
「だって、由之、話してくれないんだもの」
いつもクールな偲が唯一年相応の表情を見せるのは、決まって由之が絡む時だ。生まれた時からの付き合いの莉奈は馴れているが、美夜は違ったようだ。拗ねた顔の偲を悪戯な目で見つめた。
「この年になって何でも親に話すのはかえって変よ。それに、いくら私でも竹本さんにまで手を出したりしないわ。偲に恨まれるだけで、いいことないし」
「偲、由之君と美夜ちゃんが怪しいって疑ったの? なんでかなあ」
莉奈にとっては、由之は完全に保護者の立場である。自分が由之よりも遥かに年上の神沢俊広と本気で結婚しようとしていたことも忘れて、莉奈は信じられないと呻いた。
「莉奈にわかんなくていいの」
「えーっ、なんで」
莉奈が思いっきり膨れるのをみて、偲と美夜は大笑いした。
「ところで、私、神沢俊広のDVDを見に来たんだった。私家盤があるんでしょう」
「美夜、知らないよ? この子にそんなリクエストしたら、夢に魘されるくらい見せられるよ」
偲がからかうように確かめるが、美夜の返事も待たずに、莉奈の声が飛ぶ。
「美夜ちゃん、生のシュンちゃんに逢ったことなかったんだよね。どれからいくかなあ」
視聴覚ルームに歩き出す莉奈の後に続きながら、美夜は偲の手によって定位置に戻された、夕張黒ダイヤミュージアムのロゴ入りのビニール傘に目をやった。
この傘を同じように西野匠も持っているということだ。
「美夜ちゃん、[ブルー・スカイ・ブルー]って曲知ってる?」
先頭を行く莉奈が振り返って尋ねる。
「知らない」
即答して、美夜は廊下に差し込む陽射しに目を細めた。
今日は雨傘なんていらない。