ACT.2 クリスティ



 夏が近づく空は案外不安定なもので、さっきまでそれなりに晴れていたはずなのに、急に暗雲立ちこめたと思うと、思い切り良く夕立が降り出した。
 店の裏手に車を停めたはいいが、三分にも満たない距離でも傘なしではきつい。撮影に使うために今日は持ち歩いていて、たまたま助手席に置いていた蝙蝠傘を引き寄せ、ドアを開けて、先に開く。雨に濡れないようにそのまま傘の下にもぐり込み、車から降りる。後ろ手でドアを閉めると、そのまま車から離れた。車内から人の気配が消えるのをキャッチするまで約一分。自動的に掛かったロックの音は激しい雨音にかき消された。
 人影のない喫茶店[クリスティ]のドアを開けると、ドアに括りつけられた大振りのドアベルが鳴り響いた。ドアを完全に閉めずに閉じた傘を一振りして、水気を切っていると、確かめるように背中越しに声をかけられた。
「由之君?」
 年齢不承の幼い声色に竹本由之は、少しだけ意外に思いながらカウンターに向き直った。
「優子さん、店番してるの?」
 軽く頷きながら、優子は由之の手にした傘に気づいて目を見張った。
「もしかしてその傘……」
 由之は傘の柄を下にして傘掛けに立てかけた。こうしておくと早く水が抜けると教えてくれたのは、そういえば目の前の女性ではなかったか。
「覚えてました? この間物置を整理していたら奥から出てきたんですよ。まだ十分使えるし、それで先日から持ち歩いてるんです」
 優子は氷水の入ったグラスと乾いたタオル地のおしぼりをカウンターに置いた。この店のウェイトレスのような行動だが、単なる常連である。もっとも、店の従業員だと誤解されてもおかしくない人間ではある。なんせ、この店はマスターが一人いるだけで、他に正規に雇ったことはない。それで多少客が増えてくると、常連の手を気安く借りることになる。料理の腕に定評があった優子がそのうち、カウンターの中で適当に軽食を作るようになり、当然のように相伴に預かったマスターがそれを黙認したため、非公認の店員となって今に至る。
 ただ、この店番には致命的な欠点があった。
「コーヒーの方がいいんだよね」
 彼女はコーヒーが飲めない。香りにむせて駄目だという。故に味と香りが勝負のコーヒーを入れることができない。マスターがいれば、問題はないのだが、見たところ少なくとも店にはいないようだ。
「あったまれればいいよ」
 優子との付き合いが古い由之はそんな彼女の性癖を知っているから、無茶を言わない。どうしてもと望めば、お菓子作りのためにストックしているインスタントコーヒーを出してきて、入れてくれるだろうけど。
「マスター、奥で籠っているから、呼んできてもいいよ」
「社長には報告だけだからいいよ。別に急ぐわけじゃないんだ」
 この[クリスティ]のマスターは、竹本由之の所属 事務所の社長でもある。本人曰く、『本職はクリスティのマスターだ』そうだが。
「それに、せっかく優子さんと二人きりになれたのに、邪魔されたくないな」
 悪戯めいた口調でそう口説いてみるが、目の前の女性はただ微笑みを浮かべてこういなす。
「その口のうまさは、シュン譲りかしら」
「僕は彼ほど節操なしじゃないですよ。だいたい、本当の気持ちしか口にしないし」
「シュンも本気は本気なんだけどね。少なくともその時は。まあ、女性にはマメな人だったわね」
「おかげで未だに余計な波紋が消えずにいる。亡くなった後まで、優子さんに苦労かけるなんて」
 北原莉奈は小説家の天野優と北原敬一の娘ではなく、神沢俊広とに間にできた不義の子だ。誰も公然と否定をしないため、その噂は莉奈のデビューと同時に再燃した。無論、それは全くのでたらめである。
「世間なんて、自分の信じたいようにしか信じないものよ。何を言っても無駄」
 悟ったような優子の言葉に、それ以上言うべき言葉を捜せずに、由之は話題を戻した。
「その点、僕は同じ独身とはいえ、扶養家族を抱えてるからね、そうそう無茶はできない」
「偲ちゃんがいるから?」
 何気ない優子の返答に、由之はふと痛みを感じた。
「あの傘の下に隠れるように座り込んで、由之君の帰りを待ってたわね」
 懐かしむように傘を見つめながら優子は告げた。
「確かにあんな風に待たれたんじゃ、夜遊びなんてできないわね」
「そういうこと」
 おどけるように由之は返した。
 ケトルが沸いた気配に優子はコンロに足を向けた。
「紅茶でいいかしら」
「ダージリンある?」
 由之のリクエストに優子は棚の上に手を伸ばす。
「子供って変な場所を気に入るのよね。シュンが、せっかく由之を紳士にしてやろうって見立てたのに、って残念がってたけど……。でもそう嘆きつつ、偲ちゃんから傘を取り上げることはなかったわ」
 紅茶茶碗とポットを湯通しして温める。ポットにダージリンの葉を入れて、ケトルの湯を注ぐ。そして優子は砂時計をひっくり返した。
 由之が砂時計の砂が流れ落ちるのを見ていると、ふいに優子が真剣な面持ちで告げた。
「由之君は良くやったと思うわ。両親がいない分、偲ちゃんはきちんと愛されていい子に育ったもの」
「僕だけの力じゃないよ。優子さんの手がなかったらどうなっていたか」
「私は当たり前のことをしただけだわ。それにブラックアイズがいてくれたから、なんとかなったの。世のお母さんたちは自分の力だけで立派に二人も三人も子供を育てているんだから、威張れやしないわ」
 砂時計の砂が落ち切ったのを確認して、優子はきちんと拭いておいた紅茶茶碗に茶漉しを乗せてダージリンを注いだ。馨しい香りに満足な出来映えと思えたのか、茶漉しをとって受け皿に乗せてティスプーンを乗せると優子は満面の笑みで差し出した。
「美味しいよ」
「それは良かった」
「こんなに丁寧に入れてくれる店ないよ。下手するとティパックででてくるし」
「ティパックでもちゃんと入れたら美味しく飲めるんだけどね。ポットで少し蒸らすだけでも違うのよ」
「そうなんだ」
「逆にどんなにいい葉を使っても、いい加減に入れたら味は格段に落ちるわ。気持ちのいれ方が違うのよ」
 紅茶に譬えて、優子が別のことを言いたいのはすぐにわかる。
「人間と同じ?」
 由之がそう問うと、優子は出来のいい生徒を褒めるように笑顔で頷いた。
「そうよ。一生懸命愛情を注いだから、偲ちゃんは傘の下から自分で飛び出して成長して、可愛い女の子に育ったでしょう」
「じゃあ、愛情が足りなかったら」
 あの雨の夜にスカイブルーの傘を広げた少女を由之は思い出した。
 胸のもやもやがあの日からどうしても取れない。
「美夜ちゃんにクラクラきちゃった?」
 からかうように優子が訊いた。何の前ぶれもない台詞に由之は慌てた。
 何か言い返そうにも、咄嗟に言葉は出てない。
「由之君、真面目だから悩んじゃったのよね」
 紅茶を一口飲んで、何とか気を取り直し、由之は煙草を取り出した。
 優子はカウンターに灰皿を置くと、自分の紅茶茶碗を用意して、ダージリンを注いだ。ついでのように由之の茶碗にもお代りが注がれる。
「どうして急にそんなこと思いつくんですか?」
 ようやく気持ちを落ち着けたつもりでも、口調が上ずってるのが自分でもわかる。
「美夜ちゃんを送っていったことを黙っていたって、偲ちゃんがむくれたって訊いたから」
 この店でも偲が愚痴を零したのは事実だ。それが優子の耳に入ったことは、不思議でも何でもない。けれども、年端もいかない少女の色香に迷ったなどと悟られるような謂れはない。……ない、はずだ。
 そんな由之の思いを読み取ったのか、優子は含み笑いをした。
「由之君、私の本職忘れたの?」
 無論、この店のウェイトレスなどではない。
「小説家だってことはわかってるけど」
「人の心の動きを読むくらいはお手の物です」
 苦虫を噛み潰したような顔をしては、肯定しているのも同じだ。それがわかっているから、由之も今更下手な言い訳はしない。
「美夜ちゃんは女の私から見てもはっとすることがあるわ。由之君がついクラクラするのは当たり前なの。いちいち悩んでたら身が持たないわ」
 確かに昨今のコギャルは中学生に見えないほど、大人びた子も中にはいる。ただ、美夜の場合は髪を染めたり派手な化粧をして、背伸びをしているわけじゃない。逆にそんな外見に惑わされた訳ではない方がひょっとして問題かもしれない。
「だって、偲と同じ年ですよ。子供だ」
「うちの莉奈なら、まだまだ子供だけど、どうでしょうね。美夜ちゃんや偲ちゃんを、頭から子供と断じるのはどうかな」
「偲は、まだ子供ですよ」
 由之はそう言って冷めた紅茶を飲み干した。
「そう言っていたら、いきなりBFを家に連れてきたりして」
 由之は今度こそ苦い顔で黙りこくった。
 テーブルの上のシガレットケースに無意識に手を伸ばして、煙草を取り出す。ライターに火を点けて、口に銜えた煙草を近づける。それから、ふとこのシガレットケースが、去年の偲からのバースディプレゼントだったと思い出した。
 偲がBFのために誕生プレゼントを選ぶようになる。そんな日が来ると気づいて、動揺している自分がいる。
「まいったな」
「何が?」
 優子が無邪気な目でそう問いかける。まっすぐに人を見つめる黒目がちの大きな双眸は、そのまま莉奈に引き継がれている。嘘やごまかしを拒否するそんな視線から逃れるように、そっと目を伏せて、由之は苦く笑った。
「偲がBFを連れてきても、物分かりのいい叔父になろうと、僕はずっと決めてたんですよ。なのに、今は自信ないな」
「そんなものじゃないの? うちなんかはなから期待してないわ」
「莉奈にBFができたら……その男は誰であってもおそらく大変でしょうね。僕を含めてつまんない男だったら承知しない保護者が多すぎる……ねえマスターそうでしょう?」
 いつのまにかカウンターの奥に立っているマスターに由之は声をかけた。
「そうだな。うちの子供たちにつまらない手を出すような男は、まずこの僕が承知しないからね」
「困ったパパ達だこと」
 話題がすっかり様変わりしていることにほっとした由之の前にコーヒーが置かれた。
「何も言わずにでてくるあたり、やっぱりこっちが本職なんだね」
「当たり前だろう」
 好みの香りに目を細め、由之はコーヒーを一口飲んだ。
 夕立はいつのまに本降りに代わり、窓の外はすっかり暗くなっていた。