ACT.4 そして、雨上がりに
「いや、こんな偶然あるんだね」
その男の馴れ馴れしい口調は、ほんの半年前まで、良く耳にしてた。
突然の雨に打たれて困っていたのだろう。信号待ちの交差点で窓を叩かれて、さすがの西野匠も驚いた。そのまま強引に助手席に乗り込んできた男はすぐそこの地下鉄駅まで送れと言い放った。
「匠君、今何をやっているの? ついに、児童買春で手が後ろに回ったわけじゃないよね? そうだったら、葬祭部から名前消えてるもんな。一応、席はあるみたいだし」
何を言っている、と匠は男を横目で見ながら、心の中で毒ついた。
雨の夕張で莉奈を置き去りにしなければならなくなったのは、この男が葬儀会場の設営に呼びつけたからではなかったか? つい半月前の話だ。ごく普通の福祉会館で神道の葬儀をしなくてはいけなかったために、どうしても匠の手が必要だったのだ。今でこそアイドル歌手の付き人なんぞやっているが、匠は一級葬祭士のライセンスを持つ歴とした葬儀屋さんである。
匠は質問にわざと答えず、ハンドルを右に切った。
さっきまで、同じ席に今をときめくアイドルが乗っていたなどとは、口が裂けてもいう訳には行かない。別に秘密でもないし、直接の上司も承知しているのだが、この男、匠と同じ一級葬祭士でありながら、アイドルオタクという顔を持っている。デビュー前の北原莉奈の隠し撮りの写真が、怪しげなHPで公開しているのをいち早く見つけて、事もあろうに葬儀事務所のパソコンでアクセスして匠に見せたのは、この男だ。ばれたらどんなことになるか、考えただけでもぞっとする。
「相変わらず、無口だねえ」
気にした様子もなく、男は言った。
なまじ顔が整っているから、そんな風に黙りこくっていると、それだけで威圧感感じるから損だと言って、あれこれ面倒を見てくれた相手だ。匠も嫌いではない。だから言うままに車を走らせている。
タクシーの列の横をすり抜けて、うまい具合に地下鉄駅の入口に車を停める。
そのまま降りると思いきや、男はバックシートに置きっぱなしになっていたビニール傘を手に取ろうとした。目ざとく見つけていたらしい。
「ちぇっ、届かないや。悪い匠君、それとってくれないか」
匠と変わらぬ長身だが、生憎、あと一歩で手が届かなかったらしい。
――それ、この間の夕張の傘だね。匠君もちゃんと持っててくれたんだ――
ほんの三十分前の莉奈の言葉が頭をよぎった途端、匠は答えていた。
「ダメ」
「え? そこからなら車降りなくても手が届くだろう?」
「じゃなくて、それは貸せない」
「何で?」
「何でって、俺が濡れるだろう?」
「匠、車じゃんか」
「駐車場からは歩きだ」
「ケチ。ビニール傘の1つや2つぐらい」
そうぐちぐち言いつつも、男は車から降りた。さすがに後ろのドアを開けて持っていこうとまでは思わなかったのだろう。本当に目の前に地下鉄駅へ下りる階段があるのだ。傘を取るよりもたどり着く方が早い。
急に車に乗り込まれた挙句、ちゃんと地下鉄駅まで送ってやったのに、ひどい言い様だ。しかも次に逢った時にもしつこく覚えているだろう。
それでも何故か譲れなかった。
匠の自家用車で莉奈が移動したのは、夕張以来初めてだった。単に車のバックシートに放り投げて忘れていただけなのに、莉奈はすごく喜んだ。莉奈はちゃんと広げて乾かした上で、自宅に保管しているのだと、はしゃいだ顔で教えてくれた。
びしょびしょに濡れたままで放っておいたから、実際あの傍若無人な男に貸したとしても、ちゃんと使えるか微妙なところだ。ともかく、自宅に持ち帰り、状態を確かめてみよう。
クラクションを鳴らされて、はっとした匠は慌てて車を発進させる。
雨はいつの間にかやんでいた。
本当に急な通り雨だったらしい。
進路を南に取って、ハンドルを切る。行く手に見事な虹がかかっていた。