ACT.3 夜の舗道



 傘を学校に忘れてきたことに美夜が気がついたのは、待ち合わせの喫茶店の窓ガラスを雨が叩いたからだ。
 天気予報は確かに夜から雨だ。けれど初夏にかかるこの時期、天気予報はわりに当たらないことが多い。
 今日はいつもの水曜日。ミズヨウビも読めるだけに、比較的雨が多い。先日、由之と出会った時も雨が降っていた。
 別に雨ぐらい、どうってことはない。
 なのに憂鬱になるのは、この間、莉奈の部屋で見たあのビニール傘のことが、心に引っかかっているせいだ。
 西野匠と莉奈が同じ傘を持っている。つまりは砂田薫が、あの傘とお揃いの傘を持っているわけだ。
 西野匠は北原莉奈の付き人。仕事上の関係であり、それ以外の何物でもない。
 では、砂田薫は? 美夜の――?
 恋人だと口にするのは容易い。
 けれど、そうではないと、美夜は気がついている。
 毎週、水曜日の夜に逢って、ホテルで一晩を過ごし、夜が白む前に別れる。大人同士ならそれでも恋人と呼べるだろう。或いはお金の関係がなければ。
 だけど、高額紙幣を挟んだ関係でなければ、そもそも二人の間に、何も起こらなかった。
 美夜は、冷めたコーヒーをすすった。制服姿の少女が夜十時になろうとしている喫茶店に一人でいても、別に咎められもしない。一つはこの制服が市内の有名女子高校の制服だからだろう。初めてこの制服に袖を通したのは、この春。新学期が始まった時期にデパートで買い求めたのだが、不審な顔一つされなかったし、学生証の提示も求められなかった。
 そういえば、由之と逢った時も美夜はこの制服を着ていたはずだ。確かに美夜が通う、つまりは偲が通う中学校の制服と良く似たデザインではあるけれど、ちゃんと見れば違う。
 気づかなかったのか、それとも気づいていて黙っていたのか。
 おそらく、気がついていなかったのだろう。美夜が学校以外の制服を着て夜の街をさまよっている。そこまで気がついての上の保護だったら、偲のリアクションはまた変わってくるだろうし。
 そこまで考えたところで、美夜は店に入ってくる見馴れた青年に気がついた。
「遅れてすまない」
 そう告げてテーブルの上の伝票を取り上げる砂田薫に、美夜は首を横に振りながら席を立った。
 待ち合わせの時間は確かに九時半。けれどその後でメールで十時を過ぎるかも知れないと知らせがあった。
「意外に早かったのね」
 美夜の言葉に薫は腕にしているロレックスに目を落とした。時計の文字盤は、ちょうど十時を回ったところだ。
 それから彼は入口の傘立てに入れたばかりのすぶ濡れの傘を手に取り、美夜を見つめる。視線の意味に気づき、美夜は答えた。
「傘ないの。私が来た時、まだ降ってなかったし」
 薫は頷いて、自動ドアの前に立った。ドアが開かれると同時に、傘を開くと、美夜の頭に差しかける。
 美夜は驚いて、薫の顔を見上げた。
 現実的な問題として、雨が降っていて傘がないから、ビニール傘を買い求めた。高いものではないし、本来傘は一人で差すものだから、莉奈と自分の分で二本。だからお揃いになった。
 けれど、今は傘がある。紳士物の大きな傘だから別に美夜と一緒でも、不自由はない。
 たったそれだけのこと。
 美夜はいつもよりほんの少しだけ、薫の歩く早さが遅いことに気がついた。美夜に合わせてくれているのだろう。
 そんな些細なことが嬉しい。
 そっと手を伸ばし、美夜は薫の腕をとった。傘を持つ手だったけれど、そのまま腕を組んだ。さすがに驚いた顔で美夜を見つめたが、薫はその手を振りほどこうとはしなかった。単に傘を持つ手だったからかもしれないけれど。
 相合傘で、しかも腕を組んでいる。傍目には恋人同士に見えるだろう。
 それにそれぞれ同じ傘を買ったのなら、おそらくは莉奈とこの男が夕張で一緒の傘に入っていたわけではない。
 ホテルはすぐそこ。だけど、ずっとこのまま傘の中にいたい。そう美夜は思った。