春日山城


写真1
写真:新潟県上越市 春日山城 大手道
越後の上杉謙信の城として有名な春日山城。

春日山城は、謙信の父・長尾為景(越後の
守護代)が築城しました。


謙信は越後の龍と呼ばれ、甲斐の虎・武田
信玄と五回もの死闘(川中島の合戦)を繰り
返しました。





川中島の合戦のページ
写真2
写真:新潟県上越市 春日山城 上杉謙信像


写真3
写真:新潟県上越市 春日山城 
「敵に塩を送る」は、上杉謙信が武田信玄に
塩を送ったという逸話が元になっています。

信玄が駿河国の今川氏真と戦になった時、今
川氏は北条氏康と組み、海に面さない甲斐の
国への「塩どめ」を行いました。

塩不足による領民の苦しみを知った謙信は、甲斐の国に塩を送りました。

このことから、敵の弱みにつけこまず、逆にその
苦境から救うことを「敵に塩を送る」といいます。


謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりであると
いい、その軍旗は毘沙門天の「毘」でした。

毘沙門天は戦の神様で、謙信は出陣の際、小
さな毘沙門天を懐に入れていたといわれていま
す。

写真の毘沙門堂は、昭和に入ってから復元され
たものです。
写真4
写真:新潟県上越市 春日山城 毘沙門堂


写真5
写真:新潟県上越市 春日山城 天守台跡
謙信は春日山城で病死しますが、病名が大虫
(婦人病)であったと記された文献があり、謙信
は女性であったという説があります。

はたして、その真相やいかに?。


謙信が病死すると養子二人(景勝と景虎)が
家督を争い、景勝が春日山城主となります。

その後、景勝は豊臣秀吉の最高幹部である
五大老に任ぜられ、会津へ移封となりました。

かわって堀秀治が入封しましたが、春日山城は
山城で不便だったため、新たに平城の福島城を
築いて移り、慶長十二年に春日山城は廃城と
なりました。
写真6
写真:新潟県上越市 春日山城
天守台跡からの眺望


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