夏窓


 その日、僕は大学の友達、Mの家を訪ねることになった。「おもしろいものを見せてやるから来い」という電話があったのである。

 Mはまあ、一言で言えば変わり者で、KG会というMと似たような嗜好の数名から成るサークルのリーダー格の人物だ。普段はサークル棟のいちばん隅っこの部屋で、UMAだの宇宙卵だの暗殺者の谷だのヒトゲノム計画だの電波系だのアカシック・レコードだのセフィロートの木だのについて延々と語り合っている。僕はメンバーでもなんでもないが、学籍番号がMと連番だったのでなんとなく友達になって、たまにサークル部屋に行って急な休講の暇つぶしをしたり、ジュースのおすそ分けにあずかったりしていた(僕は下戸なのだ)。Mたちの話は非常に抽象的だったり、専門用語が連発されたり、門外漢にわかりやすいものでは決してない。だが僕はそういった話を敬遠するたちではなく、わけがわからないなりにおもしろく話を聞いたし、Mもそんな僕が珍しいらしくて、わりと気に入ってくれているようだった。
 ここのところ、気温は毎日30度を越える真夏日。今日も例外ではなく、家から一歩出た途端、蒸した空気が僕を包んだ。
 商店街のアーケードを突き抜け、大通りを渡り、左に曲がる。青信号が点滅しているが、暑くて走る気力もない。しかしこの信号、やたら待ち時間が長いのでこの辺りでは有名なのだ。歩道橋を渡ろうと方向転換した時、角の売店が目に入った。信号待ちがてら、手みやげでも買っていくことにした。
 安いアイスがいくつか入った袋を下げ、Mの家のドアの前に立った。家といってもアパート、それもはっきり「ボロ」と形容詞を付けたところでどこからも文句の出ないような建物の一室である。呼び鈴を押して、ノックを3回、2回、1回。こうしないとMは出て来ないのだ。
 ほどなく、中からドアが開いた。
「よく来たな、上がれよ」
ランニングに短パンのMを見て、この部屋にエアコンがなかったことを思い出した。アイスを持ってきた無意識の選択に感謝しつつ、部屋に入る。
「で、おもしろいものって…」
何だ、と聞こうとした時、先客に気づいた。
 壁にもたれて、うつむき加減で座っている一人の男。開け放たれた窓のちょうど横にいるので、最初は陰になってよく見えなかった。だが目が慣れると、彼は、あきらかに異質だった。Tシャツにジーンズといういでたちには、なんらおかしなところはない。しかしその本体が、透きとおるような、希薄な存在なのだ。よくある幽霊話のように向こう側が透けて見えるとまではいかないが、輪郭がはっきりしないというか、そこに居ることに確証が持てない。そのリアリティの無さ加減はどう考えても、狭苦しい四畳半、日に焼けて擦り切れた畳の上にあるべき存在ではなかった。
 僕のいぶかしげな様子に、Mはにやりと笑った。
「おい」
Mの呼びかけに、彼はゆっくりと顔を上げた。薄い色の髪がさらりと流れ、その目があらわになった時、僕は心臓を掴まれる思いがした。

 水に溶けてしまうかのようなはかなさと危うさで形作られた彼の、瞳だけが濃く、深かった。底無し沼の深淵とは、こういうものではないか。否応なく引きずり込まれる恐怖と、恍惚。

──────誰?」
遠くなりかける意識を必死で押しとどめた僕は、やっとの思いでMに尋ねた。
「わからない」
Mの答えは、拍子抜けだった。
「一昨日か、買い物の帰り、何かいるなと思って後ろ見たらついてきてたんだ。それからずっといる」
「ずっとって……」
「一目惚れされたみたいでな」
まんざらでもなさそうなMに、僕はあきれた。そんな得体の知れない人物を家に上げておもしろがるなんて、普通の人間なら絶対やらないだろう。そんな僕の気持ちを察したか、Mは
「だってお前、こいつが人間だと思うか? ほら」
と、彼のぼやけた顎に手をかけ、上向かせた。彼が「触れられる存在である」ことがそこで初めてわかり、そして、触れられるか否かを疑問に思うこと自体が、彼の非人間性を明らかにしていた。
「こいつ、しゃべりもしないし飯も食わない、トイレにも行かないんだぜ。そんなの警察に届けたりしたって無駄だろ。ま、頼まれても届けやしないけどな」
Mの目は、新しいおもちゃを手に入れた子供のように、好奇心に輝いている。僕はさっきから気になっていたことを聞いた。
「その、手は?」
彼の両腕は、顎に手をかけられても、ずっと後ろに回ったままだった。バランスが悪く、不自然だ。
「ああ、別に逃げはしないんだが」
そう言って引き出された細く長い腕は、手首のところで繋がっていた。手錠だ。輪と輪の触れ合う音は、ちゃちな作り物ではない、重厚な金属音だった。まったく、どこで手に入れてくるのだろう。
「まあ雰囲気だ。いいだろ、淫靡で」
ため息が出た。もう何も言うことはない。
「触ってみるか?」
Mはそう言ったが、この世のものではないにせよ、物扱いされている彼がなんとなく哀れになっていた僕は、断った。
「遠慮するよ」
「そうか? 抱き心地は悪くないぞ」
意味ありげに笑いながら、煙草を取り出すM。だが。
「あ、切れてら」
「ついでに買ってくればよかったな」
「気にするな、ちょっと出てくる」
Mが背を向けた時、彼は、なんともせつない顔でそちらを見た。彼の服は、Mの物だった。


 Mが出ていって、あの売店に行くのかなと思った時、さっきから手みやげがちゃぶ台の上に置きっぱなしなことを思い出し、慌てた。一つ取って、残りを冷凍庫に押し込む。
 僕が選んだ一つは、よくあるタイプの、安っぽいかき氷だった。ふたを開ける。さっきからの暑さで縁の方が溶け、ちょっと浮かんだ感じになってしまっていた。
「ありゃ」
僕はこれまた安っぽい、白地に青で「○○アイスクリーム・スプーン」と書かれた小さな紙袋を破り、木のさじを取り出した。氷と水の境界線の辺りを突き崩す。ジャク、と水混じりの音がした。
 彼はその様子をしげしげと見ていた。珍しいのかもしれない。
 しばらくその作業に専念して、そろそろ適度に思われたので、ひとさじすくった。彼はまだ、見ている。
「……食べる?」
言ってから、何も食べないという話を思い出した。しかたなく、自分の口に運ぶ。どさくさで忘れていた暑さを思い出させる涼味。
 不意に、彼が身を乗り出した。自分にも、と言っているようだ。
 僕はまたひとさじすくい、彼の口元に持っていった。不確かな輪郭の唇がかすかに開き、白い歯が見えた。その中に、ゆっくりと差し入れる。唇が閉じたところを見計らって、またゆっくりと、抜き取った。ちいさく喉仏が動き ───ほんのすこし、笑った。その笑みにつられるように、僕は右手を、そっと、彼の頬に持っていった。

 液体のような。
 固体のような。

 ふにゃり、とした、ちょっと吸いつくような感触。赤ちゃんの肌がもっともっとやわらかくなったら、こんな感じかもしれない。そして、ひんやりしている。
『抱き心地は悪くない』
Mの台詞が思い出された。
 深い瞳が、僕を見ていた。意識は、二点に集中した。底知れない二つの淵。吸われるようだった。淵はしだいに大きくなっていく。彼が近づいたのか、僕が近づいたのか。
 影が、重なろうとした時。安普請の階段をきしませる足音が聞こえた。
 僕は魔法が解けたかのように我にかえり、彼から離れた。ほどなくして、Mがドアを開けた。


 しばらくMと話した後、家路についた。さっきよりは日が翳っている。信号はまた点滅で、歩道橋に回った。
 歩道橋の上からは、先ほどまでいたアパートが見える。ひとつだけ開いた窓が、黒い四角に切り取られている。Mの部屋だ。

 あの四角形の内側で、今、何が行われているのだろうか。

 僕は頭を一つ振ると、踵を返し、足早に去った。



 相変わらず猛暑が続いていたある日。Mが行方不明になったことを、サークルのメンバーに聞いた。しかし、誰も心配などしていなかった。ふらりと消えてもおかしくないような奴だったから。みんな、Mのことだからいつかまたひょっこり戻ってくるだろうとのんきに構えている。
 僕は、Mは二度と帰ってこないだろうとぼんやり思っていた。Mが彼を捕えたのではなく、彼がMを捕えたのだ。根拠はないが確信があった。そして、どこかの街中で再び、彼に会う日があるなら、彼の輪郭はもっとはっきりしているだろうことにも。

 ………馬鹿げた空想だ。暑さで頭をやられたのかもしれない。


 窓の外には、夏がひろがっている。


−終−