願いは時を越え


描くものはいつも違った。目に見えるもの、見えないもの。
その日は、目に見えないものを描いていた。
心の中を。
その時は思ってもいなかったんだ。
神様が、世界を変えていたなんて。


「あの、君」
控えめな声に、振り返った。
「ごめんね。邪魔をするつもりはなかったんだけど」
その人は、すこし照れたように頭をかきながら続けた。
「君の絵がとても、すてきだったから」

僕は絵を描くのが好きだ。
あまり広くはないけど、手入れの行きとどいた美しい庭。
天気のいい日には、スケッチブックと鉛筆を持ってここに来た。
それが許されれば。

僕は入院患者だ。
今も、パジャマの上にカーディガンを羽織った姿で、ベンチに座っている。

普通に小学校を卒業して、普通に中学に入った。
普通じゃなくなったのは、そろそろ、冬を迎えようという頃。
体育の授業中に具合が悪くなった僕は、近所の街医者で診察を受けた後、大学病院で精密検査をすることになった。
そして、命に関わる病気だと診断された。

僕に声をかけたのは、背の高い男の人だった。春めいた暖かい日差しの中、スーツの上着を脱ぎ、肘にかけている。
「座っても、いいかな」
僕がうなずくと、その人は隣に腰かけた。入院している知り合いを見舞った帰りだという。
「絵、好きなの?」
僕はまた、うなずいた。
「僕は絵を描くのは全然だめで、見るだけなんだけど」
その人は、僕の持つスケッチブックに視線を合わせて、ほほえんだ。
「さっき、通りすがりに君の絵を見て、すごく、引き込まれたんだ」
そして、また、照れくさそうに頭をかいた。
「それで、どうしても声をかけたくなって」

見せてほしいと言われ、スケッチブックを渡した。彼は最初のページからひとつひとつ、すべての絵を丹念に眺め、最後の一枚で大きく息をつくと、僕に「君、年はいくつ?」と尋ねた。
「十三歳です」
「十三!」
彼は感嘆したようにそう言って、もう一度スケッチブックに視線を落とした。
「絵が上手な人って、君くらいの頃からもうこんなに描けるんだ」
そして、何気ない様子でこう続けた。
「これから、もっとうまくなっていくんだろうね」


――明日、手術するんです」
彼が、真顔になる気配がした。

「成功する確率の方が低いんだって」

「でも、しなきゃ手遅れになるんだって」

視界がにじんだ。

涙。父さん母さんには見せまいと決めていた。
でも、通りすがりの人になら。

ちょっとくらい、いいよね。


「あのね」
涙が落ちついた頃、彼が再び口を開いた。
「僕、大好きな絵描きさんがいるんだ」
ゆっくりとした、口調。
「君みたいに、とてもきれいで、あたたかくて、力強い絵を描く人なんだ」
やさしく、言い聞かせるみたいな。
「来月、その人の画集が出るんだけど」
来月、という言葉に、反射的に尋ねてしまった。
「来月の、何日?」
「えーっとね、二十日」
まさかの一致。
視線を落とした僕に、彼は問いかけた。
「どうしたの?」
「僕の、誕生日」

迎えられるかどうかわからない、誕生日。

「そうなんだ」
僕は暗い顔をしているはずなのに、彼はなぜか、喜んだ様子だった。
「その画集を、君にあげるって言おうと思ってたんだ。それなら、ちょうどいいね」
「え……」
「バースデープレゼント。だから、ここで待ってて」


「はい」
「約束だよ」

彼が言葉を続けようとした時。不意に、携帯の音がした。
「あ、ごめんね」
席を外す後ろ姿から、返してもらったスケッチブックへと視線を動かした。
彼が引き込まれたという絵。
僕の心を描いた絵。
タイトルをつけるなら、それは『願い』だった。

 ――神様。
 その画集が、見たいです。
 彼が大好きだと言った、その人の絵を。
 お願いです。僕に、その人の絵を見させてください。

名前を呼ばれた。見ると、母さんが早足でこちらに向かってきていた。
「早く部屋に戻りなさい。先生が、明日の説明をしてくださるって」
待ってくれと言ったが、辺りに彼の姿は見あたらなかった。さっきの電話で帰ってしまったのだろうか。
「もういらっしゃってるから、早く」
急かされて、僕はその場を離れざるをえなかった。


手術は無事、成功した。
術後の経過も順調で、たくさんついていた管も次々とはずれ、予定より早くリハビリを始められるようになった。
誕生日までには、庭に出られるようになるだろう。
僕は、彼に再会できる日を、指折り数えて待った。

そして迎えた、誕生日当日。
「……」
長いことあのベンチで待っていたけれど、彼はいっこうに姿を現さなかった。
「もう帰りましょう。体が冷えてしまうわ」
「父さんが代わりに待っているから」
一緒に来てくれていた両親に説得され、僕は、肩を落として部屋に戻った。

結局、彼は来なかった。
病院の人たちにも聞いてみたけれど、彼についての手がかりはつかめなかった。
誰かから預かり物をしたという話もない。
そして、父さんが書店に問い合わせたところ、僕の誕生日にもその前後にも、それらしい画集は発売されていないことがわかった。
最後まで彼を信じていたかった僕は、それを聞いて、うなだれた。
「きっと、あなたを励ますために、とっさにそんな嘘をついてくれたのね」
母さんは、そう言って慰めてくれた。

――嘘でも、よかったのに。
プレゼントなんてなくても、よかったのに。

それから、数度の手術と、リハビリを経て。
彼と再び会うことのないまま、僕は退院した。


その後、学校生活に戻った僕は、絵を描くことを生業としたいという思いを日に日に強めていった。
美術科のある高校に入学する頃には通院治療も終わり、心おきなく絵の勉強に専念できるようになった。そして、美大に進んだ。
大学在学中から、出版社に持ち込みしたり、雑誌のカットなどのアルバイトをしていたが、ある時、参加したコンクールで大賞を受賞した。そこから、ぽつぽつと仕事が入ってくるようになった。
最初は他のアルバイトとかけもちだったけれど、しだいに絵の方の比重が増えていった。そして昨年、幸運なことに、挿絵を描かせてもらった小説がベストセラーになった。
おかげで今は、なんとか絵だけで食べていけるようになった。近々、初めての画集も発売される。

画集、といえばやはり、あのことを思い出す。
あれからもう、十二年。
あの頃は、約束を破った彼を恨むような気持ちにもなった。
でも、こうして無事、大人になった今。僕は心から感謝している。
嘘までついて、もうこの世にいないかもしれない自分と約束を交わしてくれた彼に。

時々、考える。
彼がどこかで僕の絵を目にして、あの時のように、気に入ってくれたなら。
(そこは嘘じゃなかったと信じたい)
ひょっとすると、何か反応してくれるのではないかと。

あの時の願いは、かなわなかったけど。

 神様。
 また、彼に会いたいです。
 そして、彼に伝えたい。
 僕が元気でいること。
 まだ絵を描いていること。
 お願いします、神様。


初画集の発売日。
僕は自宅で、出版社経由で送られてきたファンレターに目を通していた。
その中の一通を読んだ時。
僕は、彼が嘘つきなどではなかったことを知った。

「初めまして。先生が『願い』で大賞を受賞された頃からずっと、先生の絵のファンです。
 先ごろ、とても印象的な出来事があったので、お手紙させていただきました。」

そこには、次のようなことが書いてあった。
手紙の主が、「つい先日」知人の見舞いで病院に行ったこと。
そこの中庭で絵を描く少年に出会ったこと。
少年の絵がとてもすばらしかったこと。
少年が翌日難しい手術をすると言っていたこと。
僕の画集の発売日が彼の誕生日だったこと。
少年に画集をプレゼントする約束をしたこと。
話の途中で電話がかかってきたこと。

「電話から戻ると、もう彼はいませんでした。
 手術の前日ですから、きっといろいろと準備があったのでしょう。
 もっと話をしたかったのですが、残念です。
 発売日には、先生の画集を持って、また病院に行ってきます。
 彼に無事、手渡せることを心から願っています。」

――画集の発売日が僕の誕生日に決まった時は、すごい偶然だなと驚いたけど。
偶然じゃ、なかったんだ。
「同じもの」だったんだ。

 ありがとう、神様。
 ひとつめの願いは、かなえられていたんですね。

僕はその手紙を握りしめ、はやる心で玄関の扉を開いた。
ふたつめの願いをかなえに行くために。


−終−