『一番線、電車、発車します』


その人がとても良い声をしていることに、僕はずいぶん前から気がついていた。
毎朝の通学電車。
時々、その人が車掌をしている。

『本日は───電鉄をご利用いただき、誠にありがとうございます』

朝のぼんやりした頭に、やわらかく響くバリトン。
ラッシュアワーのひどくすさんだ空気さえ和ませる力を持つ音。

『次は──────です。お出口は左側です』

十年一日の味気ない台詞が、なぜかこころよく耳に入ってくる。
その声が聞ける日は、駅に着くまでの時間が、いつもより短く感じられる気がした。

───に到着です。ご乗車、ありがとうございました』

人波にはじき出され、改札へと歩く。
時おり、車両の最後尾から乗り出した半身を眺めて、電車を見送ったりした。
声と同じく、優しげで、物腰のやわらかそうな人だった。


学校帰り。
部活動で疲れていた僕は、電車の中で、知らず熟睡してしまった。
「もしもし」
夢うつつの中の、あの声。
「終点ですよ」
「えっ」
いっぺんに目が覚めた。
目の前に、あのやわらかな顔があった。
「どうも……」
恥ずかしくて、そそくさと電車を降りた。
でも、その人の胸についていたネームプレートの名前は、きっちり記憶に残った。

その人は、僕の顔を見るとほほえんでくれるようになった。
僕はぺこりと頭を下げる。
朝の駅には話をする時間なんてどこにも転がっていない。
ずっとそれが、僕とその人の唯一の接点だった。


僕は学校を卒業した。
今日、この町を離れる。
電車に乗って、終点まで。そこから、長距離列車に乗換え。
車掌はあの人だった。今日でこの声も聞き納めだ。
僕は、ぼんやりと座席に体をあずけていた。
新しい生活への門出。別に感慨などない。
そんな所在ない身にも、あの人の声はやはりこころよく響いた。

『まもなく、───、終点です。お忘れ物のないよう、今一度お確かめください』

鞄を抱え、ホームに降りる。
なんとなくぐずぐずしていたら、あの人が立っているのが見えた。
車庫に入っていく車両を見送って、こちらを振り向いたあの人と目が合った。
僕を見とめた顔が、にっこり笑った。
「こんにちは」
やわらかな笑顔を向けられ、すこし戸惑った僕は、声は出さず軽く会釈した。
その人は僕の鞄に目をとめた。
「どこか、旅行に行くの?」
会話をするなんて、考えたことがなかった。とっさに言葉が出ない。
「大学……」
ぼそぼそと続けた。
「高校、卒業したんで」
「ああ、そうか。そんな時期だね」
また、にっこり笑った。
「おめでとう。がんばって」
心の隙間までしみとおる、声。
視界がぼやけた。

大学。
一人暮し。
知らない町。
これからの未来。
自分がこんなにも不安を抱えていたことに初めて気づいた。

その人は、僕にハンカチを差し出した。
受けとって、すこしの間、泣いた。

小さくお礼を言って、ハンカチを返した。
その人は、僕の肩に手をかけ、後ろを向くように促した。
目の前に、乗換え口への階段。

「いってらっしゃい」

その声に背中を押された時。
もやもやとしていたものがすべて足元に落ちて、地面に吸い込まれるように消えた。
そして、驚くほどに軽い一歩を、僕は踏み出した。



数年後。
僕は帰ってきた。

すこし大人になった僕を、変わらぬ声が迎えてくれた。
「君は…」
細まった目が、あの笑顔を形作った。
「大きくなったね」
「はい」
僕は初めて、はっきりと返事をした。
ひっこみ思案の少年はもういない。
ここにいるのは、今日付けで配属された、一人の車掌見習い。
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
着慣れない制服。真新しい帽子。
白い手袋に包まれた手で、握手を交わした。

帽子のつばを直す。
この帽子が彼と同じくらい似合うようになる頃には、僕の声にも力が宿っているだろうか。


『一番線、電車、発車します』


−終−