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レンブラント(Rembrant van Rijn 1609〜1669)は、オランダの事実上の独立の年にライデン(アムステルダムから運河で40キロの町)に生まれました。生家は、粉屋だったそうです。彼は、大学(ライデン)まで進むが、中退して絵画の道に進むことになります。大学に彼が、求める美術の授業がなかったことが原因と言われてます。師事した画家は、スワーネンブルフとピーテル・ラストマンでした。師事した画家があきらかでないフェルメールとは、この変もことなります。
レンブラントは、一時故郷ライデンで制作活動をし、ある程度の評価を得ます。1630年に、父親の死を向えた後、彼は故郷をあとにして、アムステルダムに向かいました。余談ですが、このころからサインも『RHL』・『RL』としていたのを、名前だけの『Rembrant』になります。
徐々に成功の階段を登って行きはじめたレンブラントに、確かな成功を与えることになったのが、今はマウリッハイス王立美術館にある『トゥルプ博士の解剖学講義』(1632年制作)です。この絵は、フェルメールのある2階の奥の部屋の通路をはさんで反対側にありました。部屋に入ると縦169.5cm×216.5cmという大きい、その絵に圧倒されます。描かれたトゥルプ博士は、右手で鉗子(かんし・物をはさむ外科の道具、ちなみに眼科でも使う)で筋肉をはさみ、説明を行っています。廻りを取り囲む人たちは、医者ではなく、名士たちです。この人物たちの、表情を実に巧みにレンブラントは描いています。「息をも止めて見入る。」という言葉が、適切ではないかと思います。部屋に入ると、自分が、その絵の中の見学する人物たちのように思えます。もう、20年近く前の解剖学の講義を思い出しました。
トゥルプ博士の解剖学講義 |
そのころの、オランダの、このような絵画は、集団肖像画と言われて、絵画の代金は描かれた名士が負担しています。ですから、彼らたちを大切にしすぎるあまり、面白くない絵になってしまうことが、多々ありました。
レンブラントのこの絵は、講義そのものにウエイトを置くことによって、芸術的にも素晴らしい絵にすることができました。そして、トゥルプ博士を囲む名士たちも、その(○o●;)と真剣な眼差しの人物たちに描かれたことで、溜飲をさげたのでした。彼は、この絵では、全ての人たちを満足させたのでした。
そして、脚光を浴びて、栄光の階段を登ったのでした。そして、運命の女性・サスキアに出会い、1633年6月5日婚約して、翌年の34年7月22日に結婚しました。レンブラントの幸福の絶頂の時期でした。
その幸福の時期は長く続きませんでした。ただ、幸福な時期にサスキアを描いた作品がありますが、良い作品もありますが、そうでない作品もあります。レンブラントは、フェルメールに比べると女性を描くのが、そんなに上手くなかったのでは、ないでしょうか?私には、そのように思えます。
次のページには、大作『夜警』を描いたころについて、掲載します。
(2002年8月25日作成)