矢立峠の由来と歴史

 

由来

矢立峠のその名の由来は、 矢立ての杉があったからであるが、
その矢立杉の由来とは、

その1 「いにしえ、津軽と比内(秋田)が弓矢(戦い)の時、双方攻め込むにあたり、 いくさ神へ吉凶占いとして大杉に矢を射立てたので矢立杉という」(国典抄・軍部七境目)

その2 「元慶4年大館城主公家が津軽に軍をだし、橘吉明を討取、兵卒を引上る時、 大杉根元に弓一張矢一双を立て、是を納め置く、其の頃より矢立杉という。大館の郷の古記にあり」 (菅江真澄・筆のまにまに)

 

歴史

 

880
元慶4年

大楯の城主公家が関の橘吉明を討つという。

1189
文治5年

出羽の大河兼任が、津軽の幕府家人宇佐美平次実政を討つ

1327
嘉暦2年

鎌倉幕軍紀清両党・小田治久軍が、津軽安東 軍討伐に矢立峠越えに攻め入るという 。

1592
文禄元年

秀吉の奥州仕置、前田利家と片桐且元の手勢が検地で津軽に入る。

1602〜
慶長年中

秋田側渋江内膳信太内蔵之助と津軽側高尾豊前服部長門白鳥瀬兵衛らが立ち会う。

1618
元和4年

津軽秋田の境目交渉。幕府島田治兵衛の取り持ちで、「峠より矢立杉峯通り出羽奥州の国境」と決定する。

1662
寛文2年

津軽藩主が江戸参勤として従来の海岸経路をやめ矢立峠をとおる。以後勤路となる。

1684
天和4年

幕府御検視下りに津軽藩が峠に休小屋を建て伝馬も引き継ぐ。帰途は矢立杉で引継ぎ。

1703
元禄16年

従来、峠に津軽側休小屋の建て場所を貸していたが、この年からやめる事にする。

1710
宝永7年

幕府巡見使通過、秋田側は峠に茶屋をたて接待しておくる。

1744
享元年

倒壊した矢立杉の株跡が消滅してきたので秋田側で植継ぎを提案するが、津軽側が拒否のため、杉株跡に柵を回す事に変更提案し、2年後の延享3年3月津軽立会いで秋田側の手で杉株跡に柵を設置する。

1756
宝暦6年

矢立杉株後に新しく苗木(二代目矢立杉)を植え付けして柵をまわして防護する。

1785
天明5年

8月22日菅江真澄が津軽碇ケ関から矢立峠を越えて出羽長走にいたる(外ケ浜風)。

1788
天明8年

7月14日幕府巡見使・随行古川古松軒が通過。矢立杉由緒なくと記す(東遊雑記)。

1790
寛政2年

8月25日憂国の志士といわれる高山彦九郎が大館から碇ケ関へ(北行日記)。

1802
享和2年

8月7日伊能忠敬測量隊が大館から碇ケ関へ矢立峠越え(沿海日記)。

1843
天保14年

4月13日江戸噺家扇遊亭扇橋が大館から碇ケ関へ。「出羽こえししるしをここにみちのおくふとしく立ちし杉の一本」を詠む。6月13日津軽から大館入り(奥のしおり)。

1851
嘉永4年

2月29日吉田松陰(当時寅次郎)通過。

1858
安政5年

5月17日秋田藩兵が矢立峠から津軽入りし蝦夷地警護に向かう。

1868
慶応4年

5月津軽藩が奥羽鎮守府副総督沢三位と随従諸隊の入国を拒否し矢立峠を封鎖する。5月12日秋田側の道路普請の者が発見通報、13日以降大館より視察談判を再三派遣する。16日沢三位と諸隊が大館着滞在、23日に封鎖は解除されるが、津軽藩入りを危険と考え27日に海路函館をめざすとして大館から能代湊に移り滞在する。この事が、秋田藩の奥羽列藩同盟脱退・新政府側となり戦端を開くことにつながる。

1868
慶応4年

7月津軽藩が新政府側参加となり、津軽諸隊が矢立峠より陸続と秋田入りする

1868
明治元年

11月、幕府脱走軍の函館占領に対し秋田より新政府軍長州・徳山隊が矢立峠越えで青森に向う。

1869
明治2年

6月帰還兵南下、降伏の榎本武揚らも護送され通過する。

1876
明治9年

7月7日大久保利通視察、大館から青森入り

1877
明治10年

矢立峠新道開削、9月通行可能となる

1878
明治11年

7月31日英婦人旅行家イザベラバードが白沢を立ち碇ケ関へ、(日本奥地紀行)

1881
明治14年

9月1日明治天皇行幸、青森より秋田入り

1889
明治22年

7月青森〜碇ケ席〜大館の乗合馬車開通

1892
明治25年

更に新ルートの道路開削される(旧国道) 1899明治32年 碇ヶ関〜白沢(現大館市)鉄道開通

1965
昭和40年

秋田側国道ルートを繋沢東側につけ変える(現国道7号)

 

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