県指定史跡
日本26聖人殉教の地(西坂の丘)

Nihon26sejin Jyunkyounoti
 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルの来日によってキリスト教の布教が始まりました。西洋との交流が始まりヨーロッパ人が日本を訪れるようになると、彼等のもたらす異種の文化が非常に珍しいものに映った諸大名達は、貿易のもたらす利益とともに南蛮人と称して彼等を受け入れました。
 しかし、織田信長の後を受け継ぎ、天下統一を果たした豊臣秀吉は1587(天正15)年6月19日、突然に「伴天連追放令」を出し、キリスト教を禁じ、宣教師に国外退去を命じました。しかし、一方ではポルトガル船の来港と貿易は許していました。
 1596(慶長元)年7月12日、航海に不安を持たれるほどの積み荷を満載してフィリピンのマニラを出港してメキシコへ向かっていたスペインのガレオン船サン・フェリペ号が、10月嵐に遭い四国・土佐海岸にたどり着きました。この船には約200人の船員、乗客と共に、後に殉教者の1人となったフィリッポ・デ・ヘススも司祭叙階のために乗船していました。
 10月19日、浦戸港に入港しようとしたサン・ヘェリペ号は、港口で座礁し沈みかけたため、膨大な量の絹、織物などが海に投げ込まれ、あるいは舟で砂浜へ陸揚げされました。この積み荷のことは、詳しく土佐の大名長曽我部によって秀吉のもとへ報告されました。秀吉は増田長盛に命じ、サン・フェリペ号の積み荷をことごとく押収し、京都へと運ばせました。この積み荷をめぐる確執から騒ぎが次第に大きくなっていきました。
 キリスト教に不安を感じた秀吉は、12月8日夜、フランシスコ会士およびその信者に対する逮捕令を出しました。
 9日、京都フランシスコ会聖堂にいたレオン烏丸、パウロ鈴木、ボナペントゥラ、トマス小崎、およびガブリエルの5人が逮捕されました。
 10日、アンドレス小笠原の家でパウロ三木、ヨハネ五島、ディエゴ喜斎の3人がが拘束され、そして、京都、大阪に居た宣教師と熱心な信者達がつぎづと捕えられました。
 捕えた24人の修道会士と信者達は、処刑を決めた秀吉の命により、翌年1月3日、見せしめのために鼻と耳を削ぎ落とされ、京都の目抜き通りを牛に引かせた荷車に乗せられて引き回わされました。翌4日明け方、牢を引き出された24人は、大阪、堺と引き回され、堺の牢に監禁されました。
 1月8日、ついに秀吉は24人を長崎で磔刑にする判決を下しました。
 翌9日、堺を出発した殉教者達は、殉教者の世話をするために付き添い、執拗に願い出て後に殉教者に加わったペトロ助四郎と、殉教者を最後まで見届けようと心に誓い、願って殉教者に加わった熱心な信者フランシスコ吉の2人と共に、遥かな殉教の地長崎・西坂の丘へ向かって歩き始めました。
 2月5日朝、西坂の丘は処刑される殉教者を一目見ようとする人々で埋められていました。
 殉教の地へたどり着いた26人の殉教者達は、十字架に縛り付けられ、その十字架は一列に並べて西坂の丘に建てられました。
 処刑が始まり、若い修道士フィリッポ・デ・ヘススが槍で突かれ、最初の血を流しました。アントニオとルドビコの2人の少年は賛えの歌「子らよ、主をたたえよ」を歌い、その歌声が終わるか終わらぬうちに槍で突かれました。
 こうして次々に処刑は進み、最後にペトロ・バプチスタ司祭が尊い血を流して、処刑は終わったのです。
 その後、鎖国が終わりキリスト教への迫害が終わるまでに、西坂の丘では600人を越えるキリスト教信者の尊い血が流されました。
 1862年6月8日、教皇ピオ9世によって26人の殉教者は聖人の列に加えられました。そして3年後、26聖人に捧げて、大浦天守堂が西坂の丘に向けて建てられました。

  「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままで残る。
        しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ」
                   (ヨハネ12-24)  
日本二十六聖人
26聖人の碑
二十六聖人像(船越保武作)
26人は腰に布を巻いただけの姿で殉教しましたが、意図的に着衣の姿となっています。
()の番号は「日本26聖人記念碑」の像に向かって右から左への順序です。
( 1)
聖フランシスコ吉
京都、大工
京都のフランシスコ会修道院の近くにすむ。迫害の9か月前に受洗したばかり。
逮捕されてはいないが、殉教者と行を共にしたいと願い、長崎への途中で捕えられ、殉教者に加えられる。
殉教時の年齢不詳
( 2)
聖コスメ竹屋
尾張、刀研師
レオ烏丸とともに京都の修道院の建設に尽力した。
洗礼後、伝道士として大阪のマルティン神父を助ける。
愛をもって病人の世話をし、神父の支えとなった。
マルティン神父と共に大阪の修道院にいたときに捕えられる。
殉教時の年齢38歳?
( 3)
聖ペトロ助四郎
京都
殉教者の世話をするようにと、京都のオルガンティノ神父から派遣されたが、 途中の西宮で、自分も縄を受け、受刑者の一人に。
長崎に着いたとき、逮捕者の名簿に記載されていなかったため、釈放されそうになったが、自ら進んで殉教者の中に加わった。
殉教時の年齢不詳
( 4)
聖ミカエル小崎
伊勢、弓矢師
ある日、宣教師の説教を聞き、信仰の道へ。
フランシスコ会第3会に入会。京都、大阪の修道院の建設に協力。
息子トマスと共に殉教。
殉教時の年齢46歳
( 5)
聖ディエゴ喜斎
備前、イルマン(修道者)
殉教のずつと以前からのキリシタン。
修道院を訪れる者の世話をする。キリストの受難に関する小冊子をまとめた。
殉教の数時間前にイエズス会への入会を許された。
体をヤリで貫かれる時、小声でイエズスとマリアの名を唱えた。 
殉教時の年齢64歳
( 6)
聖パウロ三木
摂津、イルマン(修道者)
武家の子として生まれる。5歳のとき、両親と共に洗礼を受けた。
10歳ごろ安土城下のセミナリオで勉強を始め、22歳のときイエズス会に入会した。
仏教の教議に詳しかったので、仏教とキリスト教の教えを対比して説いた。
大阪のイエズス会修道院で捕えられる。
「わたしは何の罪も犯したわけではござらぬ。キリシタンの教えを広めただけで処刑されまする・・・」と群衆に言い残して処刑される。
殉教時の年齢33歳
( 7)
聖パウロ茨木
尾張、桶屋
レオン烏丸の兄。もともとは武士の出であるが、当時は貧しい桶屋を営んでいた。
殉教の2年前、棄教しようとしたが、ゴンザロ・ガルシア修道士の指導によって克服した。
弟レオン烏丸と共に貧者、病人の世話をし、布教に力を尽くす。
ペトロ・バプチスタ司祭の忠実な伴侶であった。長崎への殉教の道でも、妻、母や他のキリシタン達に手紙を寄せ、信仰を固く守るように励ました。
死を前に「神よ、あなたに命をささげます」と祈る。
殉教時の年齢54歳
( 8)
聖ヨハネ五島
五島、イルマン(修道者)
五島に、熱心なキリシタンを両親として生まれる。
幼少のころ、長崎のイエズス会士に引き取られ教育された。
パウロ三木とともに、大阪で捕えられたが、逃れようとすれば逃れられた。しかし進んで殉教者の列に加わることを望んだ。殉教の数時間前に、イエズス会への入会が認められ、十字架にかけられた。
「父上も神の教えのまことを信じ、怠りなく神にお仕えくださるよう・・・」と
言って自分のロザリオを父に渡す。
殉教時の年齢19歳
( 9)
聖ルドビコ茨木
尾張
レオ烏丸とパウロ茨木は叔父にあたる。
殉教の1年前に受洗。いつも明るく朗らかであった。
京都の聖フランシスコ会修道院で侍者として仕える。
司祭が逮捕された時、彼は除外されたが、捕えるよう願い出た。
「自分の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話しは今も語り継がれる。最年少者。
殉教時の年齢12歳
(10)聖アントニオ 長崎
父親は中国人、母は日本人。
殉教の約1年前の1596年の始め、マルチノ神父に連れられて京都に来られ他の少年たちと共に教育を受ける。
刑場に来て嘆く未信者の両親に、慰めと励ましの言葉をかける。 
殉教時の年齢13歳
(11)
聖ペトロ・バプチスタ
スペイン、サン・エステパン、司祭
殉教した26聖人の指導者。
22歳のとき、フランシスコ会に入会。メキシコを経てフィリピンへ派遣され、宣教師として名声を得た。
1593年、日・比修好使節として来日し、日本のフランシスコ会宣教師の長となつて止まった。
50歳近くになって、日本語に熟達するために、けんめいに日本語を学んだ。
キリストにならって両手を釘づけにされることを願った。
イエズスとマリアの名を呼び息絶える。 
殉教時の年齢48歳
(12)
聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
 スペイン、アギラ、司祭
18歳のときフランシスコ会に入会。メキシコを経てフィリピンへ赴任した。
1596年半ば、ブランコ神父とともに来日。わずか数か月で日本語を自由に話せるほどになった。
ヤリで体を突かれる時、大声で「主よ、わが魂を御手に委ねます」と叫んだ。
ヤリの柄が抜けて穂先が残ったため、穂先を手で引き抜かなければならなかった。 
殉教時の年齢30歳
(13)
聖フィリッポ・デ・ヘスス
メキシコ、修道士
スペイン人を父母として、メキシコで生まれた。
青年時代、少し放縦な生活を送った彼は、両親により商業のみちへ進むようフィリピンへ送られた。
フランシスコ会で司祭になるために勉強を始め、司祭叙階のため、サン・フェリペ号でメキシコへ向かう途中、嵐に会い日本へ漂着。京都のフランシスコ会修道院にいたとき逮捕。
喜びの涙を流し、賛歌を歌って息を引き取る。 
殉教時の年齢24歳
(14)
聖ゴンザロ・ガルシア
インド、修道士
ポルトガル人を父、インド人を母としてインドに生まれる。
16歳のとき来日し、イエズス会司祭のもとで伝道士として働く。その後、マニラに渡りフランシスコ会の修道士となる。
日本語に熟達していたため、通訳として1593年再来日し、フランシスコ会の布教活動を助けた。
ヤリで突かれる前、刑吏に悔悛と改宗をすすめたという。
殉教時の年齢40歳
(15)
聖フランシスコ・ブランコ
スペイン、ガルシア、司祭
神学校在学中にメキシコへ渡り、フィリピンへ行く前に司祭に叙階。
 フィリピンでマルチノ神父に師事し、神父とともに来日。
熱心に日本語を学び、数か月で日本語で教えを説き、告解を聞けるほどになった。
十字架にはりつけられた時の顔の微笑が死後も消えなかったという。 
殉教時の年齢28歳
(16)
聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル
スペイン、修道士
21歳のとき、スペインのバラドリドにあるフランシスコ会で修道院に入り、30年の修道生活をおくる。
フィリピンの病院で勤務していたとき、日本人の患者と会い、日本での布教活動を希望するようになる。
1593年、ガルシア修道士とともに来日。
貧しい人や病人の友となり、愛徳の実践者。 
殉教時の年齢53歳
(17)
聖マチアス
京都
家がフランシスコ会修道院のすぐ近くにあった。
洗礼後、間もなく迫害が始まり捕えられた。
逮捕のとき、京都の修道院に居たキリシタン信者。
逮捕者の名簿に載っていたのは、料理人のマチアスであったが、マチアス本人が返事をしなかったので、彼が代わりに進み出て殉教者の中に加えられることとなった。
殉教時の年齢不詳
(18)
聖レオン烏丸
尾張、伝道士
パウロ茨木の弟。フランシスコ会士のもとで伝道士。
数年間僧侶の職にあったが、イエズス会の神父の教えを聞きキリシタンとなった。
フランシスコ会が来日したとき、かれらを助け京都、大阪の修道院建設に尽力した。
聖アンナ病院の院長となつたが、自ら患者のただれた体を拭き清め、衣類を川で洗濯していた。
京都市中の人達に尽力し、「神の聖役者」と呼ばれる。
殉教時の年齢48歳
(19)
聖ボナベントゥラ
京都
出生後受洗。両親の死により子供のときに寺に預けられ、20年以上も仏僧として過ごす。
ある日、自分が幼少のころ洗礼を受けていたこと知り、フランシスコ会を訪ね、修道士見習いとして教理の勉強に励むようになる。
布教に尽力。 
殉教時の年齢不詳、日本名不詳
(20)
聖トマス小崎
伊勢
ミカエル小崎の息子。11歳のとき、京都の修道院建立のため働く大工と親しくなり、キリストの教を受けるようになる。
マルチノの神父を手伝う信仰深い少年で、司祭になる希望を持つ。
母親にあてた手紙は感動的。
殉教時の年齢14歳
(21)
聖ヨアキム榊原
大阪
武士の出で最初は医学を学んだ。ある日、宣教師の説教にひかれ受洗。
大阪の修道院建設を助け、その修道院の料理番となり、そこで捕えられた。 
殉教時の年齢40歳
(22)
聖フランシスコ医師
京都、医師
豊後の大名、大友宗麟の侍医を務める。
秀吉の征韓の役に医師として従軍したとき、あるキリシタン侍からキリストの教えを学び、フランシスコ会の修道院を訪れた。
京都で洗礼を受け、聖ヨゼフ病院で活躍。 
最初には処刑者の名簿に載っていなかったが、迫害に抗議し、その結果として処刑者の名簿に載ることとなり、殉教した。
殉教時の年齢46歳
(23)
聖トマス談義者
伊勢、薬種商
キリシタンの教えを聞き改宗。その後、フランシスコ会の伝道士として働く。
強い正義感の持ち主。
殉教時の年齢36歳?
(24)
聖ヨハネ絹屋
京都、織物師(大工であったとの説もある)
修道院近くに住み、外国人宣教師との接触の機会が多く、その教えを聞いて
1595年に洗礼を受ける。 信者としては新しかったが、信仰が厚かった。
殉教時の年齢28歳
(25)
聖ガブリエル
伊勢
京都奉行に仕えていたが、17歳のとき改宗してフランシスコ会に入り、司祭、修道士の仕事を手伝う。
改宗したことを知った両親は、彼を連れ戻そうとしたが、逆に改宗させられ信徒となった。
両親は京都フランシスコ会修道院の門番となった。
殉教時の年齢19歳
(26)
聖パウロ鈴木
尾張
25歳のころ洗礼を受ける。喧嘩早い性格であったが受洗後は次第に穏やかな性格になり、フランシスコ会の伝道士となる。
キリスト教の教理には勿論のこと、仏典にも造詣が深かった。
聖ヨゼフ病院が開設されると、その院長となる。
通訳としても外国人司祭の布教を助け、自らも説教師として活躍した。 
殉教時の年齢49歳
日本二十六聖人記念聖堂(聖フィリッボ教会)
二十六聖人記念聖堂
   聖フィリッボ・デ・ヘススはこの地で殉教した26聖人の一人で、メキシコ出身の修道士でした。教会は1962(昭和37)年、日本26聖人列聖100周年記念として、記念館(資料館)、記念碑(レリーフ)と共に建てられました。
 教会の2本の塔は、向かって左が聖母マリアに奉献され、右は精霊に奉献されています。塔に張り付けられた陶片は人々の生活をあらわしています。建物全体は祈りの天使をイメージしたものです。
 教会の26聖人記念碑に面したところに、かつて26聖人が歩いた道を示す「浦上街道ここに始まる」とした小さな標識があります。
日本26聖人記念館(資料館)
 26聖人レリーフの裏に資料を展示した資料館があります。26聖人の遺物やフランシスコ・ザビエルがポルトガル王国へ出した手紙などが展示してあります。
潜伏キリシタンの墓碑
 明和(1764-1771年)頃のキリシタン墓碑。浦上・経の峰墓地にあったもの。
開館時間午前 9:00〜午後 5:00
休館日年末年始
12月31日〜 1月 2日
所在地850-0051長崎市西坂町7番8号
電 話095-822-6000
アクセス電車:長崎駅前から徒歩3分
バス:長崎駅前から徒歩3分
入 館 料
    個 人   団 体(20人以上) 
 一 般  250円 200円
中・高校生 150円 100円
小学生 100円 80円

              [写真、説明文の複製、転用を禁じます。]
[2001 Jan. 30作成。Feb.15改訂、May 23改訂]
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