[ 被爆後の長崎の航空写真 ]
一面の廃墟となった浦上地区と周辺地域 あの日あの時 −被爆体験記− |
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長崎県立長崎高等女学校42回生 戦局が激しくなった昭和19年頃から私達女学生も学徒報国隊として、三菱兵器製作所茂里町工場に動員され、 勉学のペンをハンマーに、ヤスリにと持ち代えて、毎日毎日魚雷の生産に励んでおりました。 数日前から風邪気味で、微熱もありましたので欠勤しておりましたが、8月9日は、お天気も良く、 少しは気分も良いようでしたので、出勤の途につきました。 いつもながらの満員電車にやっと乗りこんで間もなく、賑橋のところで電車が脱線、乗客は皆、 そこで下されました。「もう今日は帰りたい」と言った同じ工場の女工さんを励まし、 遅刻でしたけれど茂里町まで一緒に歩き、工場に入りました。 職場に入って間もなく、空襲警報のサイレンが鳴り響き、私達はいつものとおり厚い綿入りの防空頭巾を持って、 山王神社下の防空壕に避難致しました。 その日は、すぐに警報も解除され、むし暑い防空壕を出て、親しかった同級生とのんびりと話をしながら 職場へ戻りました。私の席は2階の仕上工場で南側の窓に近い方でしたが、 反対側の北の窓に面した方だった同級生の席へ一緒に行き、先程の続きに話し込んでしまいました。 続々と人々が避難先から戻って来ましたので、私も自席へ戻り、作業をはじめました。 いつもはすぐに自席に戻るのに、別れ辛くて、いつまでも話し込んでいたなど、 後から考えると虫の知らせというのでしょうか、その同級生は、爆風に飛ばされてしまって遺体も分からなかったのです。 作業をはじめてから、どれ程の時がたっていたでしょうか。北側の窓の外、製鋼所の方に黄色に朱色のまざったような、大きな光が閃き、ゴーッとすごい響がしたかと思うと、あの大きな工場の建物が揺れ動き、二階の床が中央部から折れて落ち込み、かねてからの訓練どおり指で目をおさえ、耳を塞ぎ、口をあけて、バイス台のかげに、しゃがみこんだ体は、工場内のありとあらゆる物体と共に押され、引きずられ、あけた口の中には塵埃がとびこみ、まるでエレベータの降下の時のような身のすくむ感じで、このまま地面に着いた時は、もう駄目かなと思いながら落ちて行きました。 それからどれ程の時間が経過したのか分かりませんが、気がついた時は、 横だおしになったバイス台の足の間にあった私の体は、周囲を覆ってしまった機械や資材、 倒壊した建物の破片などで身動きも出来ず、押しても動かず、途方にくれてしまいました。 しかし、不思議なほど冷静に、薄暗い周囲を見廻すことが出来ました。 抜けそうになっていた左足の靴をはき直し、痛みを感じて、頭や腕、足をさわってみましたが、 出血の量も大したことなく、ああ助かったのだと感じました。 さて、どうしてここを脱出しようかと見廻している時、聞き覚えのある女工さんの「助けて!!}の 声が近くで聞こえ、誰かが被覆物を動かして女工さんを引っ張り出しました。 すると私の周囲も少し緩んで来ましたので、もがいて少しの隙間をみつけ、自力ではい出し、 やっと地面に降り立つことが出来ました。 外は、一面に倒壊した建物が、瓦れきの山と化し、火の手も上って、煙いっぱいの中を、 服はぼろぼろに破れ、或は、赤黒く焦げた皮膚むき出しで裸同然の群衆が、逃げまどい、助けを求めて叫ぶ人、 泣き喚く人、倒れて動かなくなった人々も多数あり、まるで地獄を想像させる様相を呈しておりました。 倒壊した家の下敷きになって助けを呼んでいる声に近寄って、覆いかぶさった木材を取除こうとしましたが、 私の力ではどうにもならず、「加勢して下さい!」と叫んでも、放心したようにとぼとぼと足を引きずって歩く人、 走って過ぎる人々ばかりで立ち止まる人もなく、止むなく「ごめんなさい」とそこを立ち去りました。 途中、背の高い男の人が、一糸も纏わぬ黒焦げの裸で両手を拡げ、よたよたと「助けて下さい」 と寄りかかって来られたのにはすっかり驚いて、力いっぱい走って逃げ出してしまいました。 前方に左肩から後ろにぼろ布を下げ、下はワカメのようにぼろぼろの腰巻だけの女性がよろよろと 歩いておりました。近づいてみるとぼろ布と見えたのは、黒焦げになった皮膚で、幅広くベロッと後に垂れ下がり、 肩口から斜めに口をあけた傷から、ドクッドクッと血が吹き出し、まるで赤い布で作った縫いぐるみ人形のような 赤ん坊をしっかりと抱いておりました。 山王神社下の防空壕の前も黒焦げの、或いは血みどろの負傷者で一ぱいでした。 壕の入り口からは煙が出ておりましたので、これでは中に入れないと思い、そのまま山王神社の方へ歩きました。 片足で立っている鳥居に驚いて見上げていると、何だか、揺れているようにみえたので、 倒れてきては大変だと思い、廻り道をして山の方へと登って行きました。 途中の壊れた馬小屋の中には、両眼の突出した馬が、四肢を硬直させて、横たわっておりました。 大学病院が斜め右下に見える山の上に腰を下ろし、建物が次々と燃え上がり、ゴーッという音と共に倒壊する有様や、 大学病院の一つの窓から、大きな舌のような赤い炎が、すっと出て来たかと思うと、その隣の窓から、 と次々に燃え広がって行くのを茫然と見下ろしておりました。 あの日あの時 −被爆体験記− 長崎県立長崎高等女学校42回生 [印刷所]聖母の騎士社 長崎市本河内町196 095-824-2080 から、その1文の一部を、関係の方々の了承を得て掲載したものです。 転載、流用は固くお断りいたします。 |