稲佐悟真寺国際墓地 |
16世紀中頃、長崎は大村純忠の領地でした。1567年(永禄10年)、ポルトガルの修道士アルメイダが島原半島口之津から長崎に入り、キリスト教の布教を始めました。そして翌1568年には廃寺を改造して、長崎の最初の教会「トードス・オス・サントス(諸聖人)」が建てられました。1570年(元亀元年)に長崎はポルトガル貿易港として開港し、翌年にはポルトガル船が入港して外国との交流が多くなりました。フィゲイレド神父が港町(現在、県庁があるあたり)に「岬の教会」と呼ばれる小さな教会を建て、長崎の布教の中心となりました。純忠の庇護のもとにキリスト教は盛んになり、一方神社仏閣は布教の妨げになるとして、次々に焼き払われていき壊滅の状態となりました。。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉が伴天連追放令を出し、岬の教会も破壊されました。翌年、秀吉は長崎、茂木、浦上をイエズス会から没収して直轄地としました。1592年(文禄元年)には長崎奉行が設けられ、1597年(慶長2年)には「日本26聖人殉教」がありましたがキリシタンの勢いは止まりませんでした。 1596年(慶長元年)、筑後善導寺の僧聖誉玄故は仏教の廃絶を嘆き、再興を志して長崎に来て、キリスト教徒の迫害に耐え1598年(慶長3年)、悟真寺を建立しました。 1600年(慶長5年)、最初の中国人が長崎に来ました。当時、長崎の住民の多くがキリスト教徒で、悟真寺は唯一の仏教寺でした。そこで、中国人たちは悟真寺を菩提寺として墓地を設けました。1613年(慶長18年)、徳川幕府は全国に禁教令を発し、キリシタン弾圧が始まり教会は破壊されました。長崎の市中にいたポルトガル人は、1636年(寛永13年)に完成した出島に収容され、1639年には、ポルトガル船の来航が禁止されました。 1609年(慶長14年)に平戸に開かれたオランダ商館が、1641年(寛永18年)に平戸から出島に移されました。商館長は死者を陸上に葬れるよう幕府に陳情を続け、悟真寺にオランダ人の墓地が設けられました。 長い鎖国も終わった1858年(安政5年)、ロシア使節プチャーチンが日露修好通商条約締結のため長崎に来港した時、亡くなった20人のロシア人水兵を埋葬するために、オランダ人墓地の上方にロシア人墓地が設けられました。 現在、ここには数か国にわたる多くの人々が眠っていますが、その中には1778年(安永7年)に亡くなった出島オランダ商館長のヘンドリック・デュールコフや、1904〜1905年(明治37〜38年)の日露戦争で亡くなったロシア将兵の墓もあります。ロシア人墓地にある礼拝堂は、日本の亜使徒ニコライ大主教の記念礼拝堂といいます。 仏教の寺有地山内に、キリスト教、イスラム教、道教などの異教徒が埋葬されている墓地は、他にあまり例がないようです。 |
[悟真寺]
浄土宗、終南山光明院悟真寺。長崎でキリシタンが盛んであった1598年に、僧聖誉玄故が長崎の仏寺再興第1号の寺として開いた。開基は、聖誉の法徳を慕って帰依した、唐商欧陽華宇と張吉泉。本尊は明時代の唐仏、阿弥陀三尊。 原爆で倒壊した本堂は、1959年(昭和34年)に再建されました。 右は、開山聖誉玄故の墓です。 | ||
[稲佐悟真寺国際墓地]
墓地入口の橋の欄干には、明福岑渡仙橋と書いてあります。 墓地左側中程にオランダ人墓地、その奥にロシア人墓地があります。右側中程にアメリカ人、イギリス人の墓があります。残りの多くは日本人および中国人墓地となっています。中国人の墓は、ロシア人墓地、オランダ人墓地の中にも散在しています。 |
[中国人墓地]
1600年(慶長5年)長崎に来た中国人は、唯一の仏教寺であった悟真寺の墓地を菩提寺とし、周辺に中国人墓地をつくりました。 | ||
[唐人墓地祭場石壇]
入り口の石壇は、1659年(万治2年)、長崎散宿の唐人たちが造り、春秋の祭祀法要を営んだといわれます。(長崎市指定史跡) 石製香炉は萬治己亥年(1659年)に作られました。 |
[中国人墓地]
現存する最も古い墓は1628年(寛永5年)の我譲藩です。そのた、長崎に歴史と文化に影響を与えた、多くの中国人の墓があります。 |
[オランダ人墓地]
1641年(寛永18年)に和蘭商館が平戸から長崎出島に移されたころ、鎖国を徹底するために、幕府は在留オランダ人の死者を陸上に葬ることを許可せず、水葬をを命じていました。歴代商館長は陸上埋葬許可の陳情を続け、1654年(承応3年)、ガブリエルハッパールトの時、ようやく許可されました。 最初に埋葬されたのは、1649年(慶安2年)、オランダ特派使節ドクトル・ピーテル・ブロクホピウスとされていますが、墓碑は現在のところ確認できません。 現存する石碑は30基あり、その中で年代の古いものは、商館長ヘンドリック・デュルコフの墓です。 | ||
門の近くにオランダ商館長ヘンドリック・デュルコフの墓があります。同じ列の一番奥に大藤屋の遊女八ッ橋が建てた、James Rhynboudの墓があります。 | ヘンドリック・デュルコフは日本に赴任する途中の1778年7月27日、タスティパイク号上で42歳の時亡くなり、8月15日に葬られました。墓石の上の方には、砂時計が、下の方には十字架が彫られています。 | James Rhynboud(ヤーネス・リンホード)は1816年ジーランドのヘースに生まれ、1870年1月24日に54歳で長崎にて亡くなりました。墓石の足下の面には鷹が彫刻されています。側面に「明治3年2月13日大藤屋内八ッ橋建之」と記されています。 |
[ロシア人墓地]
1853年(嘉永6年)、プチャーチンが日露修好通商条約締結交渉のために4隻のロシア艦船を率いて入港しました。しかし交渉は進展せず、出航、入港を繰り返している間の1858年(安政5年)、発生したコレラのために20人の乗組員が死亡しました。そのときの遺体を葬ったのが始まりです。 | ||
[日ソ友好の碑]
1858年(安政5年)以来、この墓地に祀られているロシア軍将兵の墓を大事に供養していただいている長崎市民の皆さんに深い謝意を表します。 1990年10月21日 (この石はソ連から運ばれました) |
ロシア正教の十字架には、横棒が2本ものや3本のものがあります。 |
オリガ・ニカロヴナ・ディミトリィワ、1907年8月3日、26歳にて死す。
ロシア革命を逃れて来日し、反革命の文筆活動をした白系ロシア人女性。 |
一等巡洋艦ドミートリー・ドンスコイ艦長。海軍大佐イワン・ニコラエウィッチ・レーベゼフ
1850年8月12日生。1905年(明治38年)5月14、15日の対馬海戦にて負傷し、同年同月15日死す。54歳。 |
二等巡洋艦クレイセル艦長、海軍中佐ピヨトル・コンスタンチノウィッチ・チモフェーエフ。
1895年10月27日死す。 墓は大理石で、上部に聖書の彫刻があります。中程には、第二次大戦のとき受けた、戦闘機の機銃弾の跡が残っています。 |
キーラ・ヤーコウレヴィナ・クズネツォーワ(左)
1874年10月27日ペテルブルグに生まれ、1938年9月11日長崎にて死す。41歳。 ペテルブルグの皇室音学校を卒業し、1922年(大正11年)2月亡命して長崎に来ました。70キロもある堂々たる体格でひくピアノのタッチは力強く、迫力がありました。ピアノ教授としても活躍しました。 |
[アメリカ人墓地]
1861年、アメリカ海軍提督ピーターソンを葬ったのが最初。 イギリス、フランス、ポルトガルなどの国の人が葬られています。 | ||
[遊女玉菊が建てた墓]
墓碑には Guster WilcKens WHO DIED AT NAGASAKI Jan 28th 1869 SED 37 YEARS と刻んであります。 側面には、「津国屋内玉ぎく」と記されています。 | ||
[志賀家墓地](長崎市指定史跡)
浦上村渕の庄屋をつとめた志賀氏歴代の墓域。志賀氏管轄の稲佐が1858年(安政5年)、ロシア休息地に指定され、その開設に関与しました。 |
所在地 | 長崎市曙町6-14 |
アクセス | バ ス:稲佐(悟真寺前)から徒歩1分 |
備 考 | 稲佐国際墓地は悟真寺が管理しています。墓地を荒らしたりゴミを捨てたりしないようにいたしましょう。 |