長崎市指定史跡
丸山・中の茶屋
愛八とぶらぶら節
梅園身代わり天満宮
中の茶屋庭園
 丸山は、1642(寛永19)年に、市中に散在していた遊女屋を幕命により、一か所に集めたのが始まりといわれています。当時、丸山は江戸の吉原、京の島原と並ぶ、日本三大花街といわれる賑わいでした。特に丸山は日本で唯一、阿蘭陀人や唐人と交流ができた花街で、「長崎の恋は一万三千里」といわれるほど、丸山遊女と阿蘭陀人や唐人との間には多くの恋物語があります。
 中の茶屋は、丸山の遊女屋中の筑後屋が設けた茶屋で、唐人には千歳窩(せんざいわ)と呼ばれていました。この名にに因んで、別名を千代の宿ともいわれ、内外の文人墨客が好んで遊び親しんでいました。
 長崎奉行の市中巡検の際には、花月とともに休憩所にあてられることもありました。幕末期にできた俚謡(りよう) 「長崎ぶらぶら節」には、「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読み込まれています。
 庭園は、江戸時代中期に築かれた庭園としては、市内の寺院のものを除けば、数少ない遺跡の一つです。庭園内のお稲荷さんは、商売繁盛のご利益があるといわれています。筑後屋の抱えの遊女「富菊」奉納した手水鉢が今も残っています。
 建物は、1971(昭和46)年、火災で焼失したので、1976年2月12日に、なるべく旧態に近く新築し復元竣工しました。
所在地長崎県長崎市中小島1丁目4-2
電 話 
アクセスバ ス:思案橋から徒歩5分
電 車:思案橋から徒歩5分
指定年月日1976(昭和51)年 7月20日

梅園身代り天満宮
 1700(元禄13)年、創建。丸山町乙名(おとな)安田次右衛門が、二重門付近で襲われ、左脇腹を槍で刺されたが、事なきをえた。日頃から天満宮を大事にしていたことから、身代り天満宮と呼ばれるようになった。
 丸山の遊女も、身代を「みだい」と読み、自分に苦労が無いことを願って参拝していたといわれます。
花月入り口花月玄関
料亭花月(県指定史跡)
 花月は、寛永年間(1624年〜)に創業した妓楼引田屋(ひけたや)の庭園にあった茶屋でしたが、引田屋の廃業の後に、庭園と建物を引き継いで料亭花月となりました。向井去来、頼山陽などの多くの文人が訪れ、詩文、版画等に紹介されてきました。幕末には、明治維新の志士たちも出入りしました。大広間の床柱に残る刀痕は坂本龍馬が残したものといわれています。
 入り口の右側には、去来が丸山で詠んだ句の碑が立っています。
  いなづまや どのけいせいと かりまくら
料亭青柳と庭
 寛政の改革(1793年頃)の後、映圃吉沢長十郎が創業した遊郭・杉本屋を受け継いだ料亭。高い石垣が当時の面影をしのばせます。かつて、大隈重信が井上開多らと国家を論じたといいます。幕末の三筆といわれる鉄翁・逸雲・梧門の書や長崎県出身の彫刻家・北村西望翁の彫刻、書、遺品 などがあります。 
愛八の墓 東検番愛八の墓
 愛八(本名:松尾サダ(1874(明治7)年〜1933(昭和8)年))は、長唄、清元、常磐津、端唄と幅広く秀でた芸と美声、気っ風の良さで人気があった丸山の名妓。相撲を見るのが好きだった。 長崎学の礎石・古賀十二郎と共に埋もれかかっていた俚謡(りよう)「長崎ぶらぶら節」を発掘し、長崎の代表的民謡に復活させました。。
 1933(昭和8)年12月30日没。享年60歳。戒名は「愛誉八池貞水大姉」。
正覚寺の陰陽石 正覚寺の陰陽石
 光寿山正覚寺は1604(慶長9)年に僧道智が開創しました。 本堂の前にある大きな陰陽石(男性を表す陽石、女性を表す陰石)は、 これにあやかると夫婦円満、子宝に恵まれるといわれています。
ぶらぶら節
 丸山遊郭を中心に、江戸時代末期(1850年代、嘉永、安政のころ)から歌われたお座敷歌。長崎の名物、風俗などが巧みに織り込まれ、歌詞も次々に加えられたが、大正の頃には忘れられた状態となっていました。
 愛八がビクターで吹き込みレコードとなって以来、全国に知られるようになりました。
ぶらぶら節抄訳版

 長崎名物はた揚げ盆まつり 秋はお諏訪のシャギリで 氏子がぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

 遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たヽいて 丸山ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

 はた揚げするなら金比羅風頭山 帰りは一杯機嫌で 瓢箪ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

 大井手町の橋の上で子供のはた喧嘩 
         世話町が五、六町ばかりも 二、三日ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

 梅園太鼓にびっくり目を覚まし 必ず忘れぬように また来て下しゃんせ
   しゃんせしゃんせと云うたもんだいちゅう

 沖の台場は伊王と四郎ヶ島 入りくる異船はスッポンポン
   大砲小砲を鳴らしたもんだいちゅう

 嘉永七年きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらに オロシャがぶうらぶら
   ぶらりぶらりと云うたもんだいちゅう

 紺屋町の花屋は上野の向う角 弥生花三十二文で
   高いたかいと云うたもんだいちゅう


ぶらぶら節古謡版

 ぽんハカマあちゃさんそこぬけ盆まつり 豚の土産で二三日ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 ゆうれん片下駄あちゃさん商売帰りゃ一杯きげんで睾丸ぶうらぶうら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 嘉永七年きのえの寅の年 まず明けまして年頭の御祝儀 一杯屠蘇きげん
   酔ふた酔ふたといふたもんだいチュウ

 嘉永七年きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらに オロシャがぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 ことしゃ十三月肥前さんの番がはり 四郎ヶ島見物がてらにオロシャがぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 沖の台場は伊王と四郎ヶ島 入りくる異船はスッポンポン
   大筒小筒を鳴らしたもんだいチュウ

 紺屋町の花屋は上野の向ふ角 弥生花三十二文で 高いもんだいチュウ

 大井手町の橋の上で子供のはた喧嘩 
         世話町が五、六町ばかりで 三日もぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅ぞの裏門叩いて 丸山ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 梅園太鼓の音にびっくり目を覚まし 朝の帰りに ぬれまらぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 しののめの別れにしっかと抱きしめて 忘れぬように又来て下しゃんせ
   しゃんせしゃんせといふたもんだいチュウ

 あんたのしゃんすは じんべん来たばいな 
   よかばのおすばんばかりといふたもんだいチュウ

 あすこのおかつあんは たいそうよかやつばってん
         ほんにあげんしとって おーどもんばいの
   おーどおーどといふたもんだいチュウ

 長崎なまりはそんげんあんしやまち
   すらごと いひますなといふたもんだいチュウ

 うしろからかつぎをかぶって抱きつく五郎丸
         こは何者ぢやとまたぐら探れば睾丸ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 すき戸の間から覗いて眺むれば 思ひがとどいて顔の痩せ
   どうして一度は添いたいもんだいチュウ

 正月十五日岩屋にかけのぼり げんべにうたれて味噌のけぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 主のあるのによくをして 命がはりにそがれた鼻柱
   相手お医者でつがれたもんだいチュウ

 あそびにゆくなら花月にかぎります 醒か井さんの手をひきながら丸山ぶうらぶら
   とっちりとっちりしゃんしゃん

 紙鳶揚げするなら金比羅風がしら 帰りは一杯きげんで瓢箪ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 紙鳶揚げするなら金比羅風がしら 帰りにや筑後町あたりで瓢箪ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 遊びに行くなら金比羅風がしら もどりにや一杯きげんで瓢箪ぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 長崎名物紙鳶揚げ盆まつり 秋はお諏訪のシャギリで氏子がぶうらぶら
   ぶらりぶらりといふたもんだいチュウ

 一座の座敷はちょっとも知らぬ顔 杯さした目もとでみんなにさとられた
   さとりさとられたといふたもんだいチュウ


2001 Jan. 29増訂

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