大浦国際墓地
Oura International Cemetery |
1570年(元亀元年)に長崎は開港し、翌年には早くもポルトガル船が入港しました。前後して長崎には多くの外国人が訪れ、鎖国時代にさえも出島を通して世界に開かれた国際都市となりました。
長崎に来た中国人は稲佐の悟真寺を菩提寺としていました。後に悟真寺の一角がオランダ人墓地に割り当てられ、国際墓地としての役割を担っていました。 鎖国が終わり、多くの外国人が居留するようになり、英国領事が先頭に立って大浦の外国人居留地に近いところに墓地を設けることを求め、1861(文久元年)2月にここ川上町に広さ3,778平方メートルの5段造りの大浦国際墓地が設けられました。 現在176基189人が葬られていますが、その大部分は艦船の乗組員です。 最も古いものは、1861年6月21日に亡くなったイギリス軍艦長ゼームス・ホーケンス・ホイットセッド(James H. Whitshed)の墓碑です。その他、大浦天主堂のステンドグラスをフランスから輸入したフランス商ユージーン・ピナテール(Eugene Pignatel)や長崎梅毒病院創立者ジョージ・ニュートン(Dr. George Newton)、そして明治維新に大きな影響を与えたといわれる丸山水兵事件の被害者ロバート・フォード(Robert Foad)とジョン・ハッチングス(John Hutchings)などが眠っています。 その後、1888年(明治21年)、大浦(川上町)の国際墓地は閉鎖され、坂本国際墓地が設けられました。そして1903年(明治36年)、坂本国際墓地に隣接して新坂本国際墓地が増設されました。
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[大浦国際墓地入口](写真:左)
[大浦国際墓地奥](写真:右) 墓地のずっと奥に、錨を彫刻した墓碑、子供の像のある墓碑などがあります。 中央は、錨の彫刻があるMichael Maloney(1887 年11月26日没)の墓碑です。 | ||
[イギリス軍艦長 ホイットセッドの墓] | [ピナテールの墓] | [ジョージ・ニュートンの墓] |
[フォードとハッチングスの墓]
1887年(慶応3年)7月6日夜、長崎港に停泊していたイギリス軍艦イカルスの乗組水兵だったロバート・フォードとジョン・ハッチングスは泥酔して丸山の路上で寝ていたところを、何者かに殺害された。 事件直後に長崎に来着したイギリス特派全権公使パークスは、6日夜長崎港を出帆した高知藩帆船横笛丸の乗組員の犯行と疑って、長崎奉行徳永昌新に抗議し、外交問題へと発展した。 | ||
[ミッチェル兄弟の像 (A Monument to the Mitchell Brothers)] |
開場時間 | 午前8:00〜午後6:00 |
所在地 | 長崎市川上町 |
入場料 | 無 料 |
アクセス | 路面電車:石橋から徒歩13分 バス :川上町から徒歩3分 |