国   宝 
大 浦 天 主 堂
日本26聖殉教者天主堂
The Church of the 26 Martyrs
Catholic Oura Church
大浦天主堂:02.04.10
 江戸時代も末期の1854年(安政元年)に日米和親条約が結ばれ、約200年続いた鎖国が解かれました。開港された長崎には、しだいにフランス、イギリスなどの外国人が居留するようになりました。
 1863年(文久3年)1月22日、フランスからパリ外国宣教会フューレ神父が来崎しました。ついで8月初旬に来崎した同宣教会プチジャン神父の協力をえて、ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに、同年12月、熊本県天草出身の棟梁・小山秀の施工で建立に着手しました。
 天主堂は翌年1864年(元治元年)12月29日竣工しました。その翌年(慶応元年)2月19日、祝別式を行い、日本26聖殉教者天主堂と命名されました。
 名称の由来は、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され、1597年(慶長2年)2月5日、長崎の西坂の丘で処刑された、日本人20人、外国人6人の26人の殉教者たちに捧げられたことによります。天主堂は処刑地の西坂の丘に向けて建てられ、3万フラン以上の工費を要しました。長崎に居留するフランス人のために建てられたことからフランス寺とも呼ばれましたが、日本では地名をつけて呼ぶ習慣があるので、大浦天主堂と通称されています。
 1879年(明治12年)、間口を左右に1間ずつ拡げて5廊にし、奥行きも深くして当初の2倍の大きさに拡張し、外壁が煉瓦構造のゴチック建築様式になりました。
 1945年(昭和20年)8月9日、原爆投下によって、屋根、正面大門扉、ステンドグラス、その他の部分に甚大な被害を受けました。1952年(昭和27年)6月30日、国庫補助を受け、5か年の歳月を費やして修復工事が完了しました。
 1933年(昭和8年)1月23日、日本洋風建築の初期を飾る代表的な建造物として、国宝に指定されました。さらに1953年(昭和28年)3月31日、再指定されました。この天主堂は、現存する日本最古の天主堂です。
天主堂庭園
 左に教皇ヨハネ・パウロ二世の像、右にプチジャン司教の像が、奥に十字架像があります。 キリスト信者発見百周年記念碑
 1865年の信徒発見を記念したレリーフです。
日本之聖母像
 1865年(慶応元年)3月17日、大浦天主堂を訪れた浦上の杉本ユリ(と思われる)らがプチジャン神父にキリスト教徒であることを明かしました。
 しだいに浦上地区のキリスト教徒たちはキリスト教徒であることを明らかにしましたが、新しく誕生した明治政府になっても禁教令は残っていたため、1868年(明治元年)から旅に出ることになりました。この旅は浦上四番崩れともいわれ、浦上地区の村人のほとんどに当たる3,414人が、キリスト教徒への弾圧が終わった1873年(明治6年)まで、名古屋以西の21藩に流配されたものです。故郷の浦上に帰ってこれたのは、旅に出たときの約半数の1,930人でした。
 1869年、信徒発見を記念してフランスから贈られたブロンズの聖母像です。
中央大祭壇大浦天主堂ステンドグラス
 ミサ聖祭が行われる祭壇。
 祭壇中央部のイエズス・キリストを描いたステンドグラスは、フランスのマン市の修道院から寄贈されたものでしたが、原爆の爆風で大破しました。 現在のは、パリのロジエ商会を通じて製作されたものです。12枚1組、幅1.5メートル、高さ3メートルあります。
 内陣左側の天蓋付き高座は司教座といいます。司教が司教の資格をもって祭式を執行するときに用いる着座です。1961年(昭和36年)までカトリック長崎大司教区司教座聖堂であった名残です。 現在、大浦天主堂は副司教座聖堂の地位にあります。
内陣右壁
 1868年、プチジャン司教がローマに赴いた折りに、画家のC. Thore氏に依頼し、1869年にできあがった「日本26聖殉教者の油絵」が掲げられています。
 油絵の下には、この聖堂を建立した高さ2.1メートル、幅1メートルのプチジャン司教の墓碑があります。
日本26聖人像
教会堂内部
 中央大祭壇の左右に小祭壇が設けられています。左はイエズスの御心の像です。右は1865年、キリシタン禁教令に屈せず密かに信仰を守っていた浦上のキリスト教徒が拝観に訪れ、信者発見の機縁となった、聖母マリア像です。
旧羅典神学校(キリスト教資料館) (国指定重要文化財)
 1873年(明治6年)キリシタン禁教が解かれ、各地へ流配されていた浦上の信徒たちが釈放されたのを契機として、大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画し、1875年に完成しました。1926年(大正15年)までラテン神学校兼宿舎として使用されました。その後、司祭館や集会所として使用されました。
 現在は、キリシタン資料室として、踏絵、マリア観音、納戸神やキリスト教関係の資料およびコルベ神父に関する資料を展示してあります。
 1972年(昭和47年)5月15日、国指定重要文化財となりました。
シスターの店 鐘 楼 (左)
 教会堂の裏手にあります。午後0時、午後6時に、南山手一帯に鐘の音が響きます。

売店(シスターのお店) (右)
 入口、階段途中にある売店。永井博士の著書、キリスト教に関する本および特製テレフォンカード、CD、メダル、壁掛けなどを販売しています。

拝観料 大人:250円 中・高校生:200円 小学生:150円
団体 大人:200円 中・高校生:150円 小学生:100円(団体はおのおの30人以上)
拝観時間夏期( 3月1日〜11月30日) 午前8:00〜午後6:00
冬期(12月1日〜 2月末日) 午前8:30〜午後5:00
所在地〒850-0931 長崎市南山手町5番3号
電 話095-823-2628
アクセス路面電車:大浦天主堂下から徒歩4分
バ  ス:大浦天主堂下またはグラバー園入り口から徒歩4分

聖コルベ館
聖コルベ館聖コルベ館内部
 コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は1894年1月8日にポーランドで生まれ、1930年(昭和5年)4月24日来崎しました。その時すでに肺結核に冒されていましたが、南山手10番館に印刷所を設立して小冊子「聖母の騎士」を創刊し、布教に尽力しました。
 1936年(昭和11年)5月、ポーランドへ帰国しました。1941年8月14日、1人の若い父親の身代わりとなり、アウシュビッツ強制収容所で亡くなりました。享年47歳。1982年(昭和57年)10月10日、聖者に列されました。
 記念館は大浦天主堂を少し下った坂の途中の、1930年5月から翌年5月16日までコルベ神父たちが仮修道院として借り、印刷を行っていた木造洋館跡にあります。1973年(昭和53年)に洋館は取り壊され建て替えられましたが、暖炉(マントルピース)だけは残されていて、当時をしのぶことができます。


開館時間 午前10:00〜午後4:00
休館日 日曜
所在地〒850-0931 長崎市南山手町2番6号
電 話095-823-3966
アクセス路面電車:大浦天主堂下から徒歩5分
バ  ス:大浦天主堂下またはグラバー園入り口から徒歩5分

            [資料提供:大浦天主堂、聖コルベ館]
            [写真、音声の複製、転用を禁じます。]

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