坂本国際墓地
Sakamoto International Cemetery

坂本国際墓地全景
 1570年(元亀元年)に長崎は開港し、翌年には早くもポルトガル船が入港しました。前後して長崎には多くの外国人が居留するようになり、鎖国時代にさえも出島を通して、世界に開かれた国際都市でした。
 長崎に来た中国人は稲佐の悟真寺菩提寺と定め悟真寺に埋葬されるようになりました。悟真寺には後に出島オランダ商館員のために墓地区画も設けられ、国際墓地の役割を担っていました。
 鎖国が解かれ、多くの外国人が長崎に来るようになり、1861(文久元年)に英国領事が先頭に立って大浦の外国人居留地に近いところに墓地を設けることを求め、現在の川上町に大浦国際墓地が設けられました。1888年(明治21年)、大浦(川上町)の国際墓地の閉鎖にともない、この地に墓地が設けられました。
 その後、外国人の急激な増加にともない南側の区画(坂本国際墓地)がいっぱいになったので、1903年(明治36年)、北側の区画(新坂本国際墓地)が増設されました。
 ここには、1892年(明治25年)にイスラエル商人M.ギンズバーグとN.メスによって設けられたイスラエル人セクションや、1900年(明治33年)の義和団の事件で戦死したフランス兵を葬るために設けられたフランス兵セクションなどがあります。
 坂本国際墓地の入り口付近には、原爆に被爆しながらも続けた医療活動と「長崎の鐘」などの著作で名高い永井隆博士と妻の緑さんの墓があります。
 新坂本国際墓地には、江戸時代の末期から日本の産業、経済、教育などの発展に多大な貢献をしたトーマス・グラバー夫妻や、その他の外国人の墓があります。
坂本国際墓地(南側区画)
坂本国際墓地 [坂本国際墓地]
 南の坂本国際墓地正面のゲートを入った右側にヘユダヤ人セクションがあります。奥の方の右側にフランス兵セクションがあります。ゲートの手前左側には永井博士夫妻の墓があります。
永井夫妻の墓 長崎市名誉市民永井隆の墓]
 長崎市の最初の名誉市民となった永井博士の墓は、墓地の入り口付近にあり、夫人の緑さんと一緒に葬られています。墓石には、パウロ永井隆、マリナ永井緑と刻んであります。
 博士は長崎医科大学での放射線診療で浴びた放射線と原爆との二重の放射線障害で白血病に倒れ、1951年(昭和26年)5月1日午後9時50分に長崎大学医学部付属病院で亡くなりました。
 夫人の緑さんは、1945年8月9日午前11時2分、長崎に投下された原爆で亡くなりました。
 二人の墓は、訪れた人たちが捧げた千羽鶴で飾られています。
坂本国際墓地入り口イスラエル人セクション坂本国際墓地奥
坂本国際墓地入り口付近イスラエル人セクション坂本国際墓地の一部
フランス兵セクション [フランス兵セクション]
 中央の碑の正面には、
 「A LA MEMOIRE DES SOLDADS ET MARINS
  FRANCAIS MORT EN EXTREME-ORIENT」
 (極東で亡くなったフランスの兵と水兵を記念して)
 と、側面には、
 「CAMPAGNE de CHINE 1900-1901」
 と記し、その下に氏名を刻んであります。
 義和団の事件は1900年(明治33年)、清時代の中国北部で起こった、 排外的な秘密結社を中心とする民族運動です。
  
新坂本国際墓地(北側区画)
新坂本国際墓地 [新坂本国際墓地]
 坂本国際墓地と道路を隔てて北側に新坂本国際墓地があります。一番奥の左側にトーマス・グラバー家の墓があります。
グラバー家の墓地 [グラバー家の墓地]
 イギリス人、トーマス B. グラバーは、長崎開港後の1859年(安政6年)、長崎に渡来し、大浦海岸通りにグラバー商会を設立して貿易商を営みました。江戸時代末期には、坂本龍馬などの維新の志士たちを援助しました。
 事業では、日本で初めての汽車を大浦海岸通りに走らせ、小菅で「ソロバンドック」を経営し、長崎港外で「高島炭坑」を開発するなどと幕末の日本の近代化に大きな功績を残しました。
 ここには、トーマス B. グラバー夫妻と、その子倉場富三郎夫妻が眠っています。
開場時間午前8:00〜午後6:00
所在地長崎市坂本町1丁目および目覚町
入場料無 料
アクセスJR  :浦上駅から徒歩10分
路面電車:浦上駅前から徒歩8分
バス  :合同庁舎前から徒歩3分

              [写真、説明文の複製、転用を禁じます。]
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