長崎市立城山小学校(旧城山尋常小学校) |
長崎原爆落下中心地から西に約500m離れた小高い丘の上にある長崎市立城山小学校は、大正12(1923)年、九州初のコンクリート3階建て校舎の城山尋常小学校として設立されました。緑に囲まれた白亜の校舎は、モダンな学校として当時は有名でした。昭和16(1941)年4月、城山尋常小学校から城山国民学校となりました。
昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎に落とされた原子爆弾で、このあたり一面は廃虚となり、学校にいた28人の教員、3人の庁務員および学校に居た三菱兵器製作所員58人、挺身隊員12人、学徒報国隊員42人が亡くなりました。生き残ったものはわずかに先生3人、兵器製作所員9人、挺身隊員2人、学徒報国隊員4人でした。また家庭にいたこの学校のこども1,400人余りが亡くなり、この地区の家庭にいて助かったこどもは50人あまりに過ぎませんでした。 校舎の一部や半円形の窓を持つ階段塔屋は爆風による倒壊をまぬがれました。現在、階段塔屋部分は長崎市原爆中心地近くに残る最大規模の被爆建造物として保存されています。 校内への登り坂には、、永井隆博士にちなむ桜があります。また、学徒報国隊員として校内で仕事中に被爆し、亡くなった少女・林嘉代子さんをしのんで植えられた「嘉代子桜」や多くの原爆の遺跡があります。 戦後昭和23(1948)年4月、城山小学校として復興されてからは、生徒たちも平和の尊さを学んでいます。修学旅行で訪れる生徒も多く、年間約13,00人におよびます。 |
原爆で破壊された城山国民学校
(長崎原爆資料館所蔵(USSBS資料)) | |||||||
城山小平和祈念館(被爆校舎)
原子爆弾で被爆した旧城山国民学校校舎の階段塔屋部分。被爆後も教室として使われていましたが、昭和55(1980)年に新校舎が建設された際、一部が遺構として残されました。原爆落下中心地に近く、現存する被爆遺構として貴重なものです。 小学校のこどもたちの努力で、平成11(1999)年2月に整備され、城山小平和祈念館として生まれ変わりました。内部には、被爆して黒こげになった木レンガや被爆して曲がったガラス、被爆後の写真や遺品などが展示されています。 |
|||||||
|
|||||||
被爆カラスザンショウ
被爆しながらもかろうじて生き残りました。幹の全体の樹皮がはがれ落ち、焼き焦げの跡も見られ、 かなり痛んでいています。現在は隣のムクの木に支えられて立っています。 校舎北側斜面にあります。 |
|||||||
永井坂
自らも被爆し、奥さんを亡くしながら被爆者の救護にあたり、その後は病の床に伏しながら執筆活動をされた永井隆博士は、原爆で荒れ野になった浦上の地を桜の花で一杯にしようと、著書「この子を残して」などの印税の中から多くの桜を贈りました。 小学校に上る坂道には、昭和24年4月に博士から贈られた桜が植えられているため、「永井坂」として生徒たちに親しまれています。 (写真で左からでいる桜は荒川平和桜です。) |
|||||||
荒川平和桜
校長室で会議中被爆した荒川秀男教頭は奇跡的に助かりました。そして生き残ったこどもたちを集めて授業を再開しました。 昭和32(1957)年に校長として小学校に戻り、平和を願う城山小学校の教育の基礎を築きました。 平成5(1993)年、荒川校長の遺族から贈られた桜は荒川平和桜と名付けられて、校門のすぐ前に植えられています。 |
|||||||
嘉代子桜(かよ子桜)
桜が好きだった嘉代子さんをしのんで、母親の林津恵さんから贈られたものです。城山小学校へ登る正面の階段を上ると、左手に植えられています。 当時県立長崎高等女学校の4年生だった林嘉代子さんは、学徒報国隊員として十日ほど前まで三菱兵器製作所茂里町工場で働いていましたが、職場の給与課が城山国民学校へ移転したため、この校内で仕事中に被爆して亡くなりました。 その朝、警戒警報が出ていました。命を削るような過酷な毎日で嘉代子さんは疲れていました。いつものように友達が迎えに寄りました。いつもは友達を待たせないように、「行って参ります。」と威勢よく出かけておりました。その日は友達が迎えに来たので、一度は「行って参ります。」と立ち上がったものの玄関まで行って、友達に「お休みにするから。」といって引き返しました。暫く迷っていた嘉代子さんは仕事が忙しいことや、2日後の誕生日に休むことを考えたのか、再び出勤すると言いだしました。それでも玄関の鏡に見入って「どうしようか。」と言っていましたが結局、友達に遅れて職場へと出かけました。 新大工町から女学校の友達と電車に乗りました。空襲警報が解除になった後で出勤時間を過ぎた時間だったので、電車は空いてました。座席に座って「行きとうなかね」、「行かんばよね」などと話しながら出勤しました。城山の方が空襲を受けることが少なく比較的安全と考えられていたので、茂里町工場へ行く3人からは「よかねえ」とうらやましがられながら、井樋の口(現在の銭座町)で電車の中から手を振って別れたのでした。 遺体は母親の津江さんが城山の小学校を中心に、嘉代子さんのちょっとした歯並びの特徴をもとに瓦礫の中の多くの死体を何日も見て回り、被爆後21日経った8月30日の夕方、崩れた校舎の3階で見つかりました。 津恵さんがここ3階へ来たのは3度目でした。どの遺骸も崩れ落ちた天井の下敷きとなって小さく砕かれていましたが、嘉代子さんの骨の上部だけは不思議と崩れずに残っていました。観音様のお守りと嘉代子さんが一人残された場合に備えて、生活のしかたなどのこまごまとしたことを書いた津恵さんの遺言が縫い込まれた防空頭巾が頭部を守っていて、その頭巾から嘉代子さんとわかりました。 一人っ子の嘉代子さんは常々、「どんなことがあっても、親を残しては死なない。」といっていたそうです。1929(昭和4)年8月11日、銀行員であった林潤さん、津恵さんの間に生まれた嘉代子さんは、16歳の誕生日の2日前に短い人生を終えました。 ・参考資料;あの日あの時・被爆体験記(長崎県立長崎高等女学校42回生)、嘉代子桜(林津恵)など |
城山小平和祈念館 | |
所在地 | 〒852-8021 長崎市城山町23-1 |
電 話 | 095-861-0057 |
入場料 | 無 料 |
開館時間 | 08:30〜16:30(ただし、土曜日は12:30まで)(日曜休館)
(小学校が開いている日、時間) |
アクセス | 路面電車:松山から徒歩5分 バ ス:市民プール前から徒歩2分 |
備 考 | 小学校の施設です。学校に迷惑をかけないように。 団体の場合は申し込みが必要です。 |