華嶽山春徳寺
長崎県指定史跡
トードス・オス・サントス教会跡
春徳寺
 華嶽山春徳寺。山門の脇に、「トードス・オス・サントス教会 コレジョセミナリオ跡」の碑がが立っています。
本堂、庫裡
 臨済宗建仁寺派のお寺。1630年(寛永7年)、建仁寺三江紹益の法子泰室清安が長崎に来て、岩原郷(現立山町)に大梅山春徳寺を建立。1651年(慶安4年)、トードス・オス・サントス教会跡のこの地に移転、山号を華嶽山と改めました。
 泰安は長崎奉行所から書物改役を拝命、以来、春徳寺住職は、聖堂向井氏とともに書物改役に任命されていました。
 本堂左手奥に、切利支丹井戸があります。
梵鐘(長崎市指定有形文化財)と芭蕉句碑
 梵鐘は当寺の開山泰室清安が、1650年(慶安3年)に造った。施主は枝村八郎兵衛尉重勝、鋳工は江戸御花入屋閑入、銘は元南禅寺高大寺住三江紹益。
 枝村氏は長崎代官末次平蔵家の家臣と思われます。
 鐘楼の左に元禄12年(1699年)崎陽芭蕉門人建立の芭蕉句碑・時雨塚があります。
   宿かして 名をなのらする しぐれかな
 右の碑には「芭蕉翁之掾vと記されています。
東海の墓(長崎県指定有形文化財)と長崎奉行土屋駿河守の墓
 東海家累代の墓。長崎における、中国式墳墓の代表的なもの。
 東海家は2代東海徳左衛門から10代にわたって唐通事を務めました。
 本堂の左、大悲閣の前には1783(天明3)年に大阪町奉行から長崎奉行になり天明4年に長崎で死去した土屋駿河守守直の墓があります。
トードス・オス・サントス教会跡(長崎県指定史跡)
 1549年(天文18年)8月15日、ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、日本にキリスト教を伝えました。翌1550年、ザビエルは平戸藩主松浦隆信に招かれ、平戸で布教を行い、約100人の信者ができました。
 そのころ、長崎は大村純忠の領地で、その家臣長崎甚左衛門純景の居城・桜馬場城と城下村がこの一帯にありました。現在の桜町から江戸町まで伸びた長い岬は、長崎と呼ばれていて、少しの農民と漁師が住んでいるだけでした。
 1562年(永禄5年)、純忠は横瀬浦(西彼杵郡西海町)をポルトガル貿易港として開きました。有馬藩主義直は口之津を貿易港として開くため、修道士ルイス・デ・アルメイダを横瀬浦から招きました。修道士アルメイダは島原、口之津などで布教を行い、島原半島にキリスト教が広まりました。
 1567年(永禄10年)修道士アルメイダは長崎に来て翌年まで布教をしました。その後を受け継いで1570年まで長崎にいたガスパル・ヴィレイラによって、1569年にこの地に仏寺を改造して長崎最初の教会・トードス・オス・サントス(諸聖人)教会が設けられました。 1597年(慶長2年)にセミナリオ(小神学校)とコレジョ(大神学校)がおかれました。1602年(慶長7年)には修練院もおかれました。
 1570年(元亀元年)に長崎はポルトガル貿易港として開港し、長崎の岬に新しい町が開かれました。岬の先端(現在、県庁があるあたり)にフィゲイレド神父が「岬の教会」と呼ばれる小さな教会を建て、長崎の布教の中心となりました。こうして国際都市長崎が誕生することになりました。
 1588年(天正16年)6月11日、秀吉は長崎を直轄地とし、藤堂佐渡守寺澤志摩守を長崎に遣わし、鍋島飛騨守信生を代官に任命しました。志摩守は1592年(文禄元年)に初代長崎奉行に任じられました。
 1613年(慶長17年)に出された禁教令により、トードス・オス・サントス教会は閉ざされましたが、建物は1619年(元和5年)まで残っていました。
 春徳寺境内には、現在もキリシタン(切利支丹)井戸が残っています。
  (トードス・オス・サントス教会跡:昭和41年 4月18日史跡指定)
城古趾(しろのこし)
 長崎甚左衛門の居城・桜馬場城(鶴城ともいわれた)があった城古趾。東土参台、唐渡山ともよばれました。 丘の頂には岩の祠があります。
所在地長崎県長崎市夫婦川町11-1
アクセスバ ス:新大工町または中川町から徒歩約10分
電 車:新大工町または新中川町から徒歩約10分
備 考長崎県指定史跡ですが、観光施設ではありません。拝観するときには敬虔に。

|HOMEへもどる| |電車路線案内図|