1587年(天正15年)、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出されて以来、1597(慶長2年)年の日本26聖人の殉教に始まり、多くのキリスト教徒が迫害され殉教しました。
江戸時代も末期の1854年(安政元年)に鎖国が解かれ、1864年(元治元年)には大浦天主堂(正式名称:日本26聖人殉教者天主堂)が竣工し、キリスト教徒への弾圧も終わったかに見えました。しかし翌年3月17日、大浦天主堂で浦上の杉本ユリ(と思われる)らがキリスト教徒であることを明かしたことに始まり、浦上地区のキリスト教徒たちは、1868年(明治元年)から旅に出ることになりました。この旅は浦上四番崩れともいわれ、浦上地区の村人のほとんどに当たる3,414人が、キリスト教徒への弾圧が終わった1873年(明治6年)まで、名古屋以西の21藩に流配されたものです。故郷の浦上に帰ってこれたのは、旅に出たときの約半数の1,930人でした。
旅から帰った信徒たちは1880年(明治13年)、この地にあった旧庄屋を買い取り、仮天主堂としました。
1895年(明治28年)、信徒たちによって天主堂の建築が始められました。フランス人の主任司祭フレノ師の設計、監督による天主堂は、石とレンガ造りのロマネスク様式の壮大な天主堂でしたが、資金難から工事はとだえがちで、1911年(明治44年)フレノ師も過労で倒れてしまいました。
後任のラゲ神父(ベルギー人)は、天主堂を早く完成させるために、屋根を木造瓦ぶきに設計を変更し、20年の歳月を経た1914年(大正3年)、赤レンガ造りの天主堂が完成しました。浦上の信徒発見の記念日である、3月17日に献堂式があげられました。床面積1,162平方メートル(352坪)の東洋一の大天主堂でした。
双塔ができ、2個のフランス製の鐘がつるされたのは、着工から30年目の1925年(大正14年)でした。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、天主堂は原爆に被災し消失しました。12,000人の信徒のうち、8,500人が爆死したと推定されています。
新しい天主堂は原爆で被災する前の天主堂をモデルに、1959年(昭和34年)に鉄骨コンクリートで再建されました。双塔にあったフランス製の聖鐘の一つは原爆でも壊れずに残り、新しい天主堂の右側の塔につるされています。1980年(昭和55年)、外装を赤レンガ造りに、窓をすべてステンドグラスに改装して、現在の美しい天主堂が完成しました。
浦上は現在、信徒数約8,000人で、日本で信徒の最も多い小教区です。
午前5時半、午後0時、6時および日曜日の午前7時には、浦上の丘に教会の鐘の音が響きます。
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