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(2004/12/8) 第二十四話:「道教寺院参拝の巻 〜長いです1〜」 さて、ご無沙汰しております。2003年1月より、ほぼ1年ぶりかと思います。 この間何をしていたかと言うと、気持ちの整理というか、譜面の整理、そして、二胡をひいたり、琵琶をひいたり、太鼓を叩いたり、録音を聞いて採譜したりと、だいぶとのんびり過ごさせて頂きました。 皆さん、kanaさん、ながながとお休みをありがとうございました。 1年ごとに自分なりの目標を決めてやっているのですが、二胡のこととは別に最近再び琵琶を再開し、中阮の基礎練習をしています。下手でもひかないと楽器が痛むのです。心も痛みます。 来年度は揚琴や三弦や古箏などなんとかしなければ、と思うものの、二胡やその仲間も一体何人いるの?という具合なのと、部屋に広げられないじゃないという具合なので、この先一体どうなるやらです。 さて、復帰第一弾は道教寺院参拝の巻です。 私の道教への関心は、子供時代に見たキョンシー映画から始まっています。古いので知らない世代の方もいらっしゃるかも知れませんね。 本当に人から見れば馬鹿馬鹿しいと思われることが後にこんなことになるなんてっていうことはたくさんありますよね。これがその一つです。 (道教音楽の学者さんが見たらがっくり来るかも知れませんが、お許し下さい。) さて、幼少時期にキョンシー映画を見た私は高校生の時に真剣に道士になるにはど うしたらよいかと考えました。というのは、あんなに剣が強くて、術にもたけていて、強いというのが魅力的で本当に道士とはそういうものなのか、どのような修行をしているのかと素朴な疑問を持ったのです。 そのころは、中国との国交が再開して、しばらくはたっていましたが、本など一般に手に入る情報が高校生にはよくわかりませんでした。もちろん、思想的な道教の本はあったのですが、どうも映画で見ているものと内容がずいぶん違うし、私が感心を持っていたのは道士の生活だったのです。 唯一、台湾の道士について記述しているものがあったのですが、主に台湾でのお葬式の役割についてのことで、著者自身も道士の呪術をあやしく感じているとの記述がありました。 それ以後、これといったつてもなく、そのままにしておりましたが、1990年代に、はじめて北京を訪れました。 もちろん、行きたい場所は白雲観でした。 さかのぼること、それより3年前、東京の神田にある某書店(本当にお世話になっておりました)で、中国道教音楽上海巻のテープを入手し、道士さんがたくさん写っている写真とお名前やら年齢やら書いてあり、譜面もおまけのようについていました。 当時は中国語も読めず、曲牌というものが何なのかもわかりませんでした。そして、上海巻があるということはきっと、北京巻や各地巻があるのではと思ってずいぶんと探しましたが、当時は見つけることができませんでした。ですが、一度でいいから実際に演奏している所が見たいと思ったものでした。 こうして、断片的なわたくし的道教音楽の旅が始まったのです。 はじめて北京の白雲観に行った時は、なにせさびれていまして、木枯らしの吹く中、期待した門前のお店もなく、道士さんの姿も参拝者の姿もほとんどなく寂しいものでした。昔はきっと、彩色豊かであった回廊のようなところも色あせておりました。 香港の人たちと思われる方々が参拝されていて、一緒にひっついて参拝いたしました。 帰りがけ、門を出る前に小さな店を発見。そこで、北京の白雲観で日常行われるお経の譜面とカセットテープを狂喜乱舞して購入し、こうして、第一回目の参拝は無事に終わりました。 もちろん、その後、道士さまの生活を空想しつつ、しばらくはまっていたことは言うまでもありません。ああ、でも、すごいしっぺ返しがあるんです。そこまで至るのが長いです。 つづく。 |
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