kanaの友だち「てんてん」による北京音楽留学体験記です。
ぼつぼつと少しずつ書いていってもらいますのでよろしく。(^^)
てんてんちゃん
てんてんさんプロフィール
北京の音楽大学に1年半二胡留学し、
1998年日本に帰国。
現在も二胡道を極めるべく精進中。
(文責:kana)
第一話: 「学校選びの巻」 '00/8/24 第二話: 「留学準備って???の巻」 '00/8/28 第三話: 「北京へ行くの巻」及び
「留学生活始まるの巻」 '00/9/2第四話: 「Z老師、留学生楼に現るの巻」 '00/9/7 第五話: 「Z老師のお宅拝見の巻
違う違う レッスン本格的に始まるの巻」 '00/9/16第六話: 「基礎改造計画練習の巻」 '00/9/27 第七話: 「Z老師のおもしろ逸話集1の巻」 '00/10/1 第八話: 「楽器の試験の巻」 '00/10/11
第九話: 「レッスン中のお客様<河南小曲>の巻」 '00/10/18 第十話: 「上海へレッスンへ行くの巻 上」 '00/11/4 第十一話: 「上海へレッスンへ行くの巻 下」 '00/11/19 第十二話: 「代理のR老師、留学生楼に突如現る、
恐怖の<江河水>の巻」 '00/12/3第十三話: 「ここんとこのZ老師のレッスンは?
なぞの楽譜<空山鳥語>の巻」 '01/1/14第十四話: 「弓が長くなるの巻」 '01/2/17 第十五話: 「転校手続きの巻」及び
「居留証問題で、奔走するの巻」 '01/6/13第十六話: 「バスでスリに合うの巻」 '02/4/11 第十七話: 「<懐郷行>その一の巻」 '02/4/29 第十八話: 「<懐郷行>その二の巻」 '02/5/9 第十九話: 「7月7日の巻」 '02/7/8 第二十話: 「晴れて転校の巻」 '02/8/7 第二十一話: 「学校が始まるの巻」 '02/8/13 第二十二話: 「しまった。独奏会をのがす、
そして、広東音楽との出会いの巻」 '02/10/5第二十三話: 「年頭にあたり。の巻」 '03/1/9 第二十四話: 「道教寺院参拝の巻 〜長いです1〜」 '04/12/8 第二十五話: 「道教寺院参拝の巻 〜長いです2〜」 '04/12/17
(2004/12/17) 第二十五話:「道教寺院参拝の巻 〜長いです2〜」 再開したかと思うとのっけから、長い話しですみません。まだまだ続きます。 さて、第二回道教寺院参拝はその数年後、留学前の準備と称して、北京にやってきました。当然、足が向くのは白雲観です。門前に、あれ、店が一つできている。お線香を売っているようです。ということは参拝する方も増えているに違いないと、確信いたしました。 いつものように参拝するために奥へと進んでいくと、笛の音が聞こえてきます。走る走る。笛のところに行かせてもらいます。それは道士さまの自室の房でした。その前ではりついて聞いておりました。すばらしく上手とは言い難いが、なにがしか味があるようなそんな響きでした。 さて、第三回道教寺院参拝はその1年後、留学中でした。 台湾の友人たちは音楽学院の入試のために準備期間として、留学生楼に住んでいました。台湾の友人たちは信仰心に厚く、入試の前後など節目に参拝をしておりました。 私は皆が参拝する時には是非ともお供をさせてと前々から頼んでおりましたので、一緒にタクシーで行くことになりました。タクシーの中で、「てんてんはどうして道教音楽に興味があるの?」と怪訝そうに聞きます。さすがにキョンシーとも言えず(中国語で説明できない。)、そのころはすでにキョンシーよりも、華彦釣(阿炳)が道士であったことや、道教音楽と民間音楽の関係など興味を持っていたのでそのように説明しましたら、うさんくさそうに「そんなん勉強しても意味ないわ。プロがする音楽じゃないわ。」とはっきり言われましたのよ。。。。 私は「あなたは中国人であるからとうに見知っているかも知れないけど、私は外国人だから知らないことだらけ。きっと、二胡の勉強にも役立つよ。」と言い張ったのでした。 台湾のその友人は、必死で受験に向かおうとしており、のんきそうに見える、受験のない聴講生の私とは雲泥の差で厳しい立場にいたのだと思います。友人は(プロ中のプロを目指す人が集う)音楽学院で学ぶ価値を見いだし、達成するために受験勉強を続けているのですから。その気持ちも後になってよくわかりました。 私自身も、そんな環境の近くに身を置きましたら、なんだか精神的に感染しているところもあり、技術的に上を目指すとか、難易度の高い曲をひこうだとか、限界を顧みず、自分を追いつめることはあります。 しかし、若い友人と比べると年齢もずいぶんと離れており、体力的にも精神的にもすんなりとその価値観にはまることもできず、かと言って門外漢にもなれずという中途半端な位置でありました。 信じているものの違い、立場の違いが友人と私を隔てた一瞬でした。 私は音楽はどのような種類であれ、音すべてが、人間の価値観の中で軽んじられるものなど一つもないと思っています。 言葉の音にしても、自然の音にしても、本当になぜに音として生じるのかということは本当に不思議で、存在の意味があると思っているのです。 そういう音の広い世界があると思う自分と、一つの音を正確に表し、複数の音の配列を吟味しつつ、表現としての最善な結果を得るために、厳しく向き合うなければと思う自分とは本来は矛盾しないものだと思うのですが、人間は迷うと、厳しくあるべき時に甘く、寛容であるべき時に厳しくなり、自分を失ってしまうものなのですね。 ここ数年そういう感じで、こういう場で書かせてもらっているということは今回のは少しはぬけたということなのでしょう。 そんな迷いの時には自分の師はどうやってこういうことを抜けてきたのかなあと思います。 今回のことはまだZ老師には話せずにいます。でも、Z老師から学んだことを通して、劉天華やその師である周少梅の生き方を思うと、やはり先人に尋ねることは重要だと思う今日このごろです。 まあ、自分が大切にしているもの(この巻でいうと、道教音楽)がけちょんけちょんに言われるとしょげちゃいます。 でも、そんな心に負けないで強くなりたいですね。 さて、話しを元に戻します。 台湾の友人たちと参拝に行くと、おやおや人だかりができているようです。ずいぶんと北京の白雲観もにぎやかになっているようです。線香の煙がもうもうと立ちこめています。 そこここで、道士さんが掃除をしていたり、術の修行なのか、何かを唱えながらぐるぐる回っています。古箏の音も聞こえるではありませんか。台湾の友人が古箏をかなでる道士さんの房の前で一言。「音不準(音がはずれてる)」って。もう、いいじゃないの。修行中なんだから。 さびれた回廊は見事に極彩色に復帰しておりました。 つづく。 |
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