藍の夜話=第1夜〜第10夜

標題

第10夜
 藍の化学(2)

2.火薬から化学へ
 長井博士は幕末に長崎で蘭医を学び徳島藩医を勤めましたが、明治2年に大学東校(現東京大学医学部)に入学、間もなくドイツに留学。明治17年(1884)に14年ぶりに帰国、東京大学医・理学部教授を勤め傍ら天然物有機化学と合成化学の研究、医薬品の応用開発にも努力をかさねました。
 徳島では明治20年代に藍商取締会所で小規模な精製研究・実験が継続され、明治29年にはほぼ確立の域に達し。明治30年に藍商取締会所は解散、その業務一切を継承して明治32年に「阿波藍製造販売同業組合」が発足しました。そこへ、長井博士が徳島に帰郷して阿波藍製造の改良を県に働きかけたので、その指導のもとに明治33年(1900)名東郡加茂村字田宮(現南田宮2丁目)に「製藍伝習所」が開設され、さらなる精製法開発を目指したというのが実情のようです。この「製藍伝習所」で作られた「精製藍」とはどんなものだったでしょうか?
おそらく「青黛(せいたい)」というまゆずみのような藍を濃縮し固形化したものだったと思われますが。青黛は、江戸時代に頭頂部の髪が薄くなった殿方が月代(さかやき)に塗って青々とした剃りあとのように見せるために使われた、といわれています。
 天然の蓼藍からの抽出製品「長井精藍」は「パリ万国博覧会」で金牌受賞の栄誉を受け、地元の精藍組合がその特許権の譲渡を受けて明治36年に伝習所を増設する勢いとなったものの、ご多聞にもれず新興「化学合成藍」に太刀打ちできず、明治末に「製藍伝習所」は閉鎖となります。
 「化学合成藍」は1880年(明治13年)ドイツの化学者・バイヤーによって研究開発、日本にも明治30年(1897)には量産品が多量に輸入され、新技術をもって国産の合成染料工場も開設されるなど、大正時代に入ると伝統的藍生産は壊滅状態となりました。バイヤーは少年時代から理化学に興味を持ち実験を好んで行っていたそうで、13歳のときに色素インジゴ(青藍)を見て神秘に打たれ、その合成に生涯を捧げることを決心したという、天才肌の逸話の持ち主です。
 ドイツ留学中の長井博士とバイヤーの間に交流があったか否かは定かではありませんが、博士の研究は「化学合成藍」に対抗する努力に見えます。恐らく留学中か帰国直後に情報を掴んだ博士は、郷里の阿波藍に対し大変な危機感を抱いて徳島県に働きかけたのではないかと想像され。その姿は、開国以来の対外貿易と技術開発・応用商品そして金融戦略にしのぎを削り、今も果敢に闘い続けている日本の産業盛衰の縮図ともいえるものがあります。
 過去において、藍タデの植付け・スクモの生産・藍建・染色にいたるまでの細かな技法が諸先達の長年のご努力で技術改良が行われ。文献上では建て方にも「鉄建」「ポッタース建」「ソーダ建」などがあり、切磋琢磨の末。最も原始的とも思える「スクモ」から藍を建てる「醗酵建」が最良ではないか、との結論に達したのが現在の姿です。
 電子技術・IT革命の今世紀。染色の世界はすでに化学染料全盛です。その一方には、リスクの多い伝統的草木染に真摯に取組み継承されている方々が多数居られるものの、愛好の方々のご理解と支援でかろうじて命脈を保っているというのも現実で。その逆風の中で、江戸期「藍の大量消費」時代に見られなかった独自の新表現法と多彩なデザインが考案されています。
(2001/9/05)
第9夜
 藍の化学(1)

1.南田宮と火薬
 江戸時代、火薬は禁制品でした。その火薬を「阿波の蜂須賀家で、密かに作っていた」という話が残っています。
記録によると、先にプラコノーによって発見された硝化綿ニトロセルロースを、1845年ドイツのシェーンバイン(1799〜1868)が、硫酸と硝酸との混合液で処理するとニトロセルロース(綿火薬)が容易に得られる事を発見。日本では早くも7年後の嘉永5年(1852)に、同じ方法で薩摩の島津斎彬によって作られています。
 広辞苑によると、綿火薬とは「精製した綿花を硫酸と硝酸との混合液で処理して作った火薬、外観は綿に類似し、点火すれば爆発して灰を残さない。「無煙火薬の原料」とあります。薩摩では、豚を飼いその堆肥から火薬の原料を作ったともいいますが、正式開国前でありながら、薩摩の情報収集力がそれほど凄いために迅速に伝播し。また、新技術への関心が高いゆえに実験に成功していた事に驚かされます。
阿波ではどうやらスクモを作る際の副産物から火薬を作ったらしく、阿波藩の煙硝蔵跡(火薬庫)は現在の徳島市南田宮2丁目にあり、近くに「煙硝蔵橋」という橋名として残っています。
 南田宮には明治7年に阿波藍の粗製工場が設置され、藍の粗製品は政府援助金50万円を得て事業を興した五代友厚の大阪「朝陽館」の工場に搬送、近江ほか各地の粗製藍と合せて大阪で「精藍」して販売されました。これは、幕末以来、ドイツやイギリスから輸入された安価な「外国藍・印度藍」の席捲に脅かされていた国産藍の事業再建が目的で、麻殖郡飯尾村(現鴨島町)にも支工場を設けその後は近江他数か所に工場を増設して隆盛しました。しかし、五代の販売網が適正を欠き、また高技術と長時間を要する「醗酵建」に対し「鉄建」を強力に推奨しようとしたため需要家である旧態依然の各地「紺屋」に必ずしも馴染まず、金融面でも苦戦の末に明治10年を最盛期として、事業は中止となりました。
 南田宮は、「日本薬学の開祖」と呼ばれエフェドリンの発見で有名な徳島出身の長井長義(ながい ながよし)博士による「精製藍」研究室がインド藍に対抗する製品の開発を目的として明治30年代に置かれ、明治期の化学事業に縁の深い場所でしたが、幕末以来の化学知識者層の存在という面から、江戸時代「火薬を作っていた」という話もまんざら噂だけではなさそうです。
(2001/9/01)
第8夜
  藍の抜染

 昔から、鶯のフンには強力な脱色作用のあることが知られ、染色品の部分色抜き剤として使われていました。使い方は、乾いたフンを少量の水で練り、脱色部分に置き乾燥後水で洗い落すだけですが、とにかくフンなので強烈な臭いは否めなかったようです。
 現在では、もっぱら化学薬品が使われ「抜染(ばっせん)」と呼ばれていますが、一般的な染色の抜染法は、「還元法」と「酸化法」に大別できます。ところが、昔から藍の色抜だけは困難とされ、失敗続きで誰も手を付けない未知の分野とされていました。その厚い壁を破る技法が確立されたのがわずか数十年前という事を、恐らくほとんどの方がご存知ないと思いますので少し触れてみたいと思います。
 実は、昭和40年代に入ると徳島県の藍の生産・販売量の落ち込みは壊滅的状況にあり、明治36年の統計で作付面積15,099ha乾葉21,958tあったのが、昭和40年にはわずか作付4haで、生産も12tに激減。このままでは伝統産業が消えかねない状況の中、時代にマッチし広く大衆に受け入れられ、藍の消費に結びつくような新製品の開発が期待されたのがそもそもの始まりでした。
 そこで、夏物衣料として好評の特産品「しじら織」を無地織にし、型紙を使って抜染すれば細かな模様が加工でき売れるようになるのでは、というアイデアが出され。徳島県工業試験場と地場業者の共同研究とし。糸染と織を加藤識布(徳島市)が受持ち、型紙による抜染法の開発は型染技術を持つ
香川卓美師(徳島市)が担当して始まりました。
 まったく未知の分野のため、原点に戻り繊維素材・糸・織そのものから検討と実験が繰り返すという苦心の連続でしたが、「藍の抜染」は必ず確立できるとの信念から、時間をかけ一つひとつの色抜剤についてテストが繰り返され、ついにある薬品が有効との結果が得られました。ところが、小さなテスト用布片では成功しても長さ約12mの小幅地ではなかなかうまくゆかず、また成分の効力も不安定で気温・湿度・経過時間に大きく左右されるところが多かったのです。 その頃の失敗談として、薬品を高濃度のままでテスト中に糊の部分が化学反応を起こして燃えだし、孔があいた布がまるでレースのようになってしまったことも、今となっては笑い話となっています。
 このような試行錯誤を繰り返し、着手から1年後にようやく型紙による藍染抜染法が確立されました。果たして「藍の抜染によるしじら織」が市場に出されるや大好評で、多くの本藍の新製品が作られました。 地場産業育成のため特許申請もしない方針で、県工業試験場も他業者に抜染技術・手順を公開するなど、技術普及に地道な努力を続けた結果、藍の需要も徐々に増えて栽付面積約20ha, 乾葉75t、栽培農家も70軒近くまで回復してきました。 藍染用の抜染剤も今は市販されて取り扱いも容易になっていますので誰でも簡単に楽しむことができ、特に防染糊では困難なTシャツなどの加工に「抜染」は便利な技法となっています。
 私が藍染の道に入ったのは、この藍抜染新技法が完成公開された直後で、型付け技術全般の習得には絶好の機会であったと、いまも感謝しています。
(2001/8/01)
第7夜
 本藍という
  呼び名

 本藍の色は、長い年月を経てはじめて、その真価を発揮します。 「本藍」とは本場の藍の事で、江戸時代タデ藍を醗酵させて作った「すくも」を搗き固めて全国販売された「阿波藍」を指し、阿波以外で生産された藍は「地藍」(地方の藍)と呼ばれてきました。
 徳島で「藍染」といえば、タデ藍を醗酵させて作った「すくも」で染めた製品を指しますが、「すくも」の製作工程の総てが経験とカンがたよりのうえ重労働を伴い、大昔から価格高になっていました。現代では伝統産業の常で後継者不足とかで産出量も僅少、必然的に高価になっています。 ところが、一方では明治開国以来、インドから「荳科こまつなぎ属」という「タデ」とは全く異なる植物から採取された「藍」の輸入、ついで明治末にドイツで開発された染効率の良い化学合成染料が世界を席捲。近年には、藍色化学染料で染められた藍染風の製品も「藍染」として販売される有様で、いまや多様な「藍」の見分けが困難なため消費者は混乱させられているというのが現状ですが、賢い消費者となるには真物を見分ける目も必要になってきました。
 これまで「本藍染」はアマチュアには難しいとされてきましたが、このほど徳島市の藍染工藝館から「藍染すくもセット」が開発発売され「お湯をそそぐだけで本藍染」を楽しむことができると、新聞にも取り上げられて話題を呼んでいます。藍染工藝館HPの「オンラインショップ」で購入できますので、興味がお有りの方はハンカチやスカーフ、Tシャツなどの絞り染から、お試めしになってください。
(藍染工藝館HPは、当HPの「LINK」からジャンプできます)
(2001/7/21)
第6夜
 光琳建てと
  利休建て

 以前、ある方から「藍建てには、光琳建てと利休建てがある」との、貴重な情報をいただきました。
光琳建ては濁りがなく澄んだ美しさがあり、利休建ては枯れて渋い味わいがあるように思いました。
「藍建」について少し補足説明しますと。藍染の特異性は、他の植物染料のように煮て色素を取り出すのではなく、藍の主成分「インジゴチン(青藍)」が水に溶解しないため、まず、インジゴチンを還元して溶解性の「インジゴホワイト(白藍)」に変化させ、この藍液に糸や布を浸し、液から引き上げて空気に当てると、酸化して再びインジゴになり藍色を発色します。このように、藍を還元して水溶性にする事を「建てる」と呼びます。
 実は、昔から型染・ローケツ染などの布を染めるには「澄まし建て(還元建て)」といいまして、藍を建てる前に水を入れ、溶け出た茶色いアクをすくい出すという法があります。
それに対し、糸染、絞り染の場合は「濁し建て(醗酵建て)」といって、スクモをそのまま建てます。この「濁し建て」で染めると、洗うほどに美しい色になっていくのですが、何故そうなるのか長い間謎のままでした。
体験から申しますと、確かに、藍の寿命がつきる前に染めた色は、アクが多いので渋目の色になります。しかし、新しい藍液にもかかわらず灰味の強い藍色に染まることがあります。これが「利休建て」といわれるものとすれば、それは若干アルカリ度が高いことが要因となって、スクモ中のタンニン分が藍分よりも先に繊維の中に入り込み、色に変化を与えているように思われます。
 まだまだ、未解明の分野が山積し、ひと時も気を抜けないのが「本藍」なのです。
(2001/7/15)
第5夜

 薬としての藍 

 藍布を身につけていると、蝮に噛まれないとか、フグの中毒には「藍液」が一番の良薬とも伝えられ。その昔、徳島の旧家では子供がおなかをこわした時「藍玉」を削って飲ませたとか、その他にも藍にはいろいろな薬効が知られています。 「藍玉」という名称は、徳島で藍タデを収穫して醗酵させたものを臼で搗いて球状に丸めて乾燥したものを全国に販売、その形態にともなう呼称で。明治以降には小角型に切り「家じるし」を刻印して販売されましたが、「藍玉」という呼称は継承されたそうです。 この藍玉には通常、変質・腐敗・損傷防止の目的で「藍砂」と呼ばれた海砂が混入され、小松島浦・弁天(小松島市)の「沖砂」を採取精選して使用。時には、瀬戸浦(鳴門)、橘浦(阿南)からも調達された海砂が使われていたとされます。従って、先のように「藍玉を削って飲ませた」という場合の「藍玉」とは、海砂の混入がない「極めて良質の藍」が使われたものと思われます。

 実際、漢方薬用として。この「藍玉」は、口内炎、胎毒、嘔吐、胃癌などに用いられ。また「藍汁」を入れた壷の底にたまったオリを「藍?」(あいてん=藍澱)と、汁の表面にできた泡を固めたものを「青黛」(せいたい)と呼んで薬用にし。葉を「藍葉」(らんよう)、果実を「藍実」(らんじつ)と呼んで解熱剤、消毒剤としたようです。 民間では「建てた藍がガンに効く」と言われ、高価で販売してひそかに暴利を貪った輩もいたそうです。
 実は、藍液の中の微生物についてはその薬効はまだ充分に研究されておりません。しかし、スクモの中に含有されている微生物については、かなり進んでいるようで。つい最近、スクモの中の何億・何兆という微生物から、ついにガンの特効薬が発見されたと聞きました。そのうち、製薬会社から正式発売されることになるかもしれません。
小学校では、5年生になると社会科で「伝統産業」について学びますが、藍染の見学に訪れた小学生を前に、人手によって作り出される商品としての藍染めの製造工程を一通り説明する時、私は、目に見えない微生物を大事にすることが、環境を守り健康な暮らしを営むことであると「すくも」を見せながら話しています。
その後で、実際に藍染を体験、のり置きなどもさせる事もあり最初からうまくいかなくても「勉強やスポーツと同じで、繰り返し同じ事を練習すれば必ず上達する」と、励ましてあげると目を輝かせて応えてくれ、先生方からもご納得して戴けるようです。
 この先、藍の不思議が注目され、子供達が成人した頃には多くの分野から科学的に研究されることでしょう。

(2001/6/30)
第4夜

  古い型紙
 

 江戸時代、紀州藩に編入された三重県鈴鹿市白子寺家には、今も型紙を製作する家があります。 染用型として彫られたものを「伊勢型紙」、型紙として彫られる前の「渋紙」の状態を「伊勢形紙」と、発音は同じですが、文字では「型・形」を違えて表現されます。
 昔はこの地から全国津々浦々にあった染屋・紺屋を定期的に廻って「伊勢型紙」を売り歩く商人が居たそうですが、実は、その人達は幕府の隠密ではなかったか、という説があります。
確かに伊勢は忍者の里、いわゆる忍びの本締という百地三太夫(百地丹波泰光)の「伊賀郷」にも近く、しかも、伊勢商人としての行商は怪しまれる事もなく、各地の人々との交わりの中で最新情報を得ることができるからです。俳聖芭蕉もやはり隠密の俗説があり、出自が伊賀、晩年に当時としては大変な長期旅行を敢行し各地の名士と交わり名作を残し、その行程の歩行速度が尋常でなかったためでしょうか。
 型紙の元になる「渋紙」は強靭性を増すため、和紙3枚を繊維方向がタテ・ヨコ交互になるよう柿渋で貼合わせてあります。和紙は当時としては大変貴重なもので、古手紙や反故を再利用した「渋紙」で作られた型紙も残っています。これなども、物を大事にした事の証しですが、伊勢商人は実は型紙の販売と同時に、渋紙の材料となる反故や手紙などを現地で回収する役目も持っていました。集めた反故や手紙類の内容を読み、各地の情勢を分析していたかも知れないというのが、先の「隠密」説の根拠であったかも知れません。

 話は変わりますが、古い型紙の復刻にも手を染め、できるだけ原作に忠実に復刻しようとコピー機にかけたところ意外にも肉眼では見えない下図の修正の跡が浮かび、作者の微妙なバランス感覚を実感することができました。そして、何よりも見事な小刀使いは良い勉強になりました。
 まだ明確にはわかりませんが、うち1枚は阿波藩の絵師・守住貫魚(もりずみ つらな)作画を型紙に彫ったともの思われ、あと1枚は「うぐひすに むちふな 萩も 風情あり」という句が添えられている事から、そのうちに依頼主もわかるのではないかと思います。 季語が2つあるので、俳句ではなく四国・瀬戸内地方で明治頃まで流行したという「雑俳」の可能性もあり、今後の研究で原作者が判明するのがとても楽しみです。
(復刻した2作品は、HPに掲載しました。こちらから、ご観覧ください)

(2001/6/15)
第3夜

  名  人

 最近、人形師・初代天狗久(てんぐひさ)の作品写真を見る機会があり、その中の娘カシラ6点を型紙で染め、このたびHPに載せましたのでご覧ください。
天狗久の作品は写実的で、男は恐ろしいくらいの迫力があり女は美しくやさしい。
以前、お弓とお鶴を染めたことがあり大体の要領はわかっていたので、途中で手描などの私なりの創作部分を加えました。が、名人には遠く及びません。
 ある時、Sさんと二人で現代の名人と呼ばれた四代目・大江巳之助師のお見舞いに行きました。
それまで何度か工房にお邪魔し教えを受けたことがありましたが、その日も工房には修理中の足がぶらさがり、使い込んだ彫台は現代彫刻のように見え、ノミはすぐ使えるように砥いでキチンと整理されていました。
寝室にお邪魔すると几帳面な巳之助師は「こんな恰好ですみません」と起き上がり、ベッドに腰掛けるようにして膝頭をそろえて座られた。
枯淡な風貌の師は、短い会話の中で、
「私を人間国宝にしようと運動しているようやが、人形遣いは国宝になっても人形彫りでは、ならんのや」と、諭すようにおっしゃった。
当時、師は徳島県無形文化財・国選定保存技術者で栄誉と賞に輝く存在であったが文化庁の規定で人形彫師は人間国宝の指定にはできない、にもかかわらず師の意に反して運動をする人があり、質実を旨とし人形彫職人に徹する師はそれを憂えておられたのです。
 そのお見舞いから一ヵ月後、訃報を聞きました。
生涯、飾り物の人形は作らず舞台で生きる人形のみ追い求め、みずから名誉を求める事がなかった師は、まさに起居動作そのものが職人の鑑とすべき人でした。

  (webマスター*脚注)
(1)お弓・お鶴=人形浄瑠璃「傾城阿波鳴門」の登場人物で、生別れとなる親子。
筋書は、阿波徳島藩士/阿波十郎兵衞が金のために、我娘と知らず巡礼姿のお鶴を殺すというお家騒動にからむ悲劇。
(2)初代・天狗久(徳島新聞・4月8日付、関連記事)

(2001/4/28)
第2夜

  藍のパワー

 藍染は古代エジプトではミイラを包む布に使われ、また、風水によれば東の方角に飾ると良いとも言われ、昔、琉球・奄美地方では入れ墨して魔除とするなど、洋の東西を問わずパワーの存在が信じられていました。
 3月の「阿波藍染30年展」会場で、多くの方々とお話ができました。
熱心にご鑑賞の熟年の方は、その日病院を退院したばかりで「この藍の色を見ているだけで、生きる勇気が湧いてきました」と言われ。また、新進の写真家は「新しい表現に挑戦しているが、壁につきあたっている」しかし、「たった今、見つかった」と喜んで帰られ。着付け師の方は「最近へこんでいるので、パワーを貰いに来ました」と、波しぶきの作品に見入っておられました。
 開催期間中受付を手伝ってくれた娘からは「誰もが皆、にこにこして帰って行かれたヨ」とも聞きました。どうやら藍の不思議なパワーを感じ喜こんで頂けて良かったと思う間もなく、写真家からはご丁重な礼状と10数枚の新作写真を頂きました。
 混迷の現代にこそ、魂を癒す本藍のパワーが必要なのかも知れません。
(2001/4/25)
第1夜

 藍の愉しみ

 ものの本によりますと、わが国の藍は奈良時代には既に栽培されていたらしい、とあります。
「藍」は、蓼藍(たであい)という植物を刈り取り精製した「葉藍」「スクモ」「藍玉」などを原料とし、その化学変化をもって染め上げますが、古代の藍に関する技法は何も伝わらず、「万葉集」にも植物としての山藍や紅藍を詠ったものがあるものの、藍について詠われたものはありません。
にもかかわらず、藍が奈良時代から栽培されていたと言える訳は、正倉院にその製品が残されているからです。
南倉の「縹縷」(はなだのる)というのがそれで、天平勝宝4年(752)4月9日東大寺大佛開眼式当日に使われたという付箋がついています。
径約0.5cm、推定長さ約198mもあり、開眼導師婆羅門僧正菩提遷那が、大仏に開眼筆で眼晴を点じるため一端を結びつけ、長く地上に伸ばして参列された願主・聖武太上天皇、光明皇后、孝嫌天皇をはじめとする参列者がこの緒を手にして功徳に浴したのでした。
ここで歴史的遺物を解説しても始まりませんが、例えば、大佛開眼の当日に使用された幡類の布地・紙類等はぼろぼろに剥落あるいは小片となって収納函の底に散乱していたそうですが、この天然藍染「縹縷」は表面に多少の色落が見られますが損傷はありません。
藍は退色しやすいと言われるものの、環境が整えば1000年の齢を保つ事がよくわかります。

また、天然藍の成分には除菌・防虫の効果もあり、洗えば洗うほど繊維の奥に色素が定着するといわれています。 手洗いがすこし面倒な藍ですが、普段にご使用いただくことによって色が冴え、いつまでも愉しんでいただけます。

(2001/3/13)