旧石器時代の(日高見)北上地方日本の国土に人が住み始めたのは10数 万年前と言われていましたが、宮城県馬場 壇遺跡等の状態から最近では30〜50数 年前まで遡るとされます。 旧人,新人どころか原人が日本列島にはい たのです。 その原人の遺跡が宮城平野から発掘され ていることは大変興味深いところです。 なぜなら、宮城平野は北上川の下流に開け ている広大な平野であるからです。 川沿いに上流に昇れば、動植物が豊富で 肥沃な土地が広がっている北上川流域を見 逃すはずが無くこの北上盆地にも原人は来 ていたと思いたいものです。 しかしながら、北上地方では全て後期旧 石器時代以後(1〜3万年前)に属する遺 跡しか発見されていないのです。 代表的な遺跡は下記です。 ●下成沢(相去町) ●斎羽場(稲瀬町) ●藤沢(飯豊町) ●大台野(湯田町) ●和賀仙人(和賀仙人) |
縄紋時代の北上地方 近年、青森県の三内丸山の遺跡から、縄 紋人は今まで考えられていたよりずっと人 間らしい生活をし、単に狩猟・漁猟・採集 だけではないと考えられる様になった。 米が経済の中心になった弥生時代以降は 、稲作に不利な自然環境の東北地方では有 ったが、逆に縄紋時代は温帯落葉広葉樹林 帯であった東北地方は豊富な堅果類(ドン グリ・トチ・クリ・クルミ類)が大変豊富 で、河川にはサケ,マスが登ってくる自然 の幸多き土地だった様です。 後期旧石器から縄紋草創期に含まれるの は、 ●斎羽場(稲瀬町) を始めとして別表のごとく北上地方は縄紋 時代およそ8000年の長きに渡り暮らし の蹟が残っており北上川と和賀川の合流し ているこの地は,人々にとっては代え難い 良地で有ったろうと考えられます。 また北上地方ではその交易範囲も驚くほ ど広く、琥珀や、黒曜石をはじめ奄美諸島 以南の暖海にしか産しない貝やサメの歯等 もあり、三内丸山の遺跡からは原産地がイ ンドのヒョウタンの種子なども出ており、 車も飛行機もない縄紋時代に、たぶん命が けで交易を行っていた事に改めて敬意を表 するものです。 |
私見 一般に人類文化の発祥の地は世界4カ所 と言われ、歴史のテストなどで問われるこ とがあるが、現在の史跡や遺跡の発掘状態 から見れば、日本国内でも十分独自の文化 発祥の地になりうるのではと思います。 例えば数年前までは中国から伝わったと されていた「漆」一つとっても現在は世界 最古の漆を使っていたのは日本から発見さ れているし、そもそも縄紋時代とする土器 その物は世界の中でも日本から発見されて いる物が世界最古で他に類を見ない程です。 どういう訳か知りませんが学者や見識者 と称する人々は、日本を大陸の東外れの吹 き溜まりとして、文化は全て持ち込まれた ものと断言しておりますが、縄紋晩期後半 から弥生時代以降は同意出来るところがあ るとしても、縄紋草創期から縄紋晩期中期 までは日本独自の文化が花開き、国内はも とより遠くオリエントやインダス,黄河文 明等と交易していたのでは...と思える のです。 |
確かに縄紋の時代でも大陸の影響を受け ている事は有るでしょうが、弥生時代と比 較すれば台風と微風の違いほどあったろう と思います。 支配、被支配や貧富の差、身分の違いは少 なくとも農耕文化の発達と共に生じたもの で、これは稲作を行うことによって最たる ものとなったと思われます。 とすれば縄紋10000年の間は日本国内 それぞれの集落で自由に伸び伸びと生活を 営んでいたと思います。 しかしながら1万年の時の流れは文明、 文化の開花に何ももたらさないでしょうか ??? 現在の続弥生文明、文化はたかだか30 00年・・縄紋時代の1/3しかありませ ん。 その時間の長さで新人類と呼ばれる人々 は、自分自身をも破壊出来るほど??! 進歩?したのですが・・・・・。 |
時期区分 | 主な遺跡 |
後期旧石器 (18,000年前) |
●下成沢(相去町) ●藤沢(飯豊町) ●大台野(湯田町) ●和賀仙人(和賀仙人) ●斎羽場(稲瀬町) |
縄紋草創期 (約12,000年前) |
●斎羽場(稲瀬町) |
縄紋早期 (8,000年前) |
●阿弥陀堂(稲瀬町)●坊館(二子) ●三十人町(相去) |
縄紋前期 (6,000年前) |
●高畑(更木) ●滝の沢(相去) |
縄紋中期 (5,000年前) |
●坊主峠(更木) ●横欠(更木) ●樺山(稲瀬) |
縄紋後期 (4,000年前) |
●八天(更木) |
縄紋晩期 (3,000年前) |
●牡丹畑(黒沢尻)●和田前(相去) ●九年橋(九年橋三丁目) |
北上の歴史(北上市編より)
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