日高見国から

(日高見国)北上地方の歴史

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日高見国

 北上川流域は、とても肥沃で湿地や沼を
ちょっと手を入れると、すぐ水田になりま
したが、縄紋後期からの気温低下による冷
害が多く、稲作の他にヒエやアワなどの雑
穀も栽培していました。

 また、北上川やその支流は、アユやコイ
、イワナなどが泳ぎ回り、秋にはサケの群
れが川面を覆うほど群れて上って来て冬の
食料にも事欠きませんでした。

 北上川は交通の便としても利用され、3
〜4日で太平洋に出る事が出来るので、広
く交易を行なえました。

 北上山地と奥羽山脈は、温帯落葉広葉樹
林帯であった為に、豊富な動植物の宝庫で
あり、早くから馬を知っていた人々
はそれを乗り回し、弓矢を使って狩りをし
ていました。

 九州や中国、近畿地方と同時期に稲作は
伝わっていましたがそれに固執していると
気候の変化で不作になると飢える為、狩猟
生活が主でした。

 北上川の流域の人々は、この川と山を充
分に利用し、その環境の中で九州や中国、
近畿地方の人々とは異なった独自の生活を
営んでいたのです。

 逆にこの独自の生活習慣が集団で事に当
たる農耕集団と異なり、まとまる事が出来
ず対抗する力が大きくなりませんでした。

諸説 
 日本の正史として位置づけられている「
日本書紀」・「古事記」ですが、この内容
が、歴史的に国内・国外(周辺アジアや中
国史)とそれほど異差なく確認できるのは
、天智天皇の頃からで、客観的に確認の出
来ない天智天皇以前は、「紀・記」であっ
ても他の古史古伝と何ら変わらないレベル
(創作・改ざんと歴史の区別がつかない)
と考えています。
 
 そういった意味で「日高見国」のあらわ
れる 他の古伝を見ると、以下が挙げられ
る。(勉強不足で、全ては網羅されていま
せん。お教え戴ければ下記に追加いたしま
す。)
  • 秀真伝(ホツマツタエ)』
    • 「日高見高天原」
  
  • 常陸国風土記・信太郡の条』
    • 「此の地は本、日高見国
       なり」
  • 東日流外三郡誌
    • 「抑々、わがうまし里。
       奥州日高見国は・・・」
  • 大祓詞(延喜式の祝詞)』
    • 「かく依さましまつりし四
       方の国中に、大倭日高見
       の国を安国と定めまつり
       て、・・・・・・」
  • 日本三代実録(貞観元年の条)』
    • 「日高見水神」・・陸奥国
       桃生郡(宮城県北部)
      −−−日高見神社に比定
 このように、正史と云われる「紀・記」
をはじめとして、古史古伝や、天皇家がお
こなうとされる大祓詞の中まで出てくる「
日高見国」は、「大和朝廷」の対極として
存在しながら、敗者として歴史の中に埋も
れた縄紋王国と推測されます。

 日高見国が初めて「紀・記」の中に出て
くるのは、大和朝廷の編んだ歴史書「日本
書紀」の中ですが、「文化の遅れた野蛮人
なので、討ちて取るべし」と言っています
 最初から敵対する相手として描かれ、し
かも武力を誇示し平和的手段を全く考慮し
ていません。これは、日高見国人を自分達
大和国人とは相容れない別な人種と考えて
いた証拠でしょう。例えると、見知らぬ相
手に会った動物が、自分を大きき見せよう
としたり、牙をむいて威嚇することと似て
います。

 さて、戦国時代の頃まで奥羽地方を「日
の本(ひのもと)」と呼んでいたふしが有
ります。特に豊臣秀吉の小田原城包囲の時
に、奥方のねねに宛てた手紙が有名です。

「関東・ひのもとまで仕置きをするために
小田原を干し殺しする・・・」といった趣
旨です。また、青森県津母村に「日本中央
」の文字が刻まれた石碑が残されています。
 中国の史書「旧唐書」と「新唐書」には、
倭国は二つの国が有ったが、倭国と日本国
が七世紀半ばに合併して一つになり、以後
日本国と名乗った。と有ります。

 これらから私見として「日高見国」≒「
日の本」とします。

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