さて、自然物採集では一人当たりどれくらいの森林を必要とするのでしょうか? アメリカのビメンテルとホールの説によると(グリーンの地球・クリーンな資源「農林統計協会」 より)1000haも必要とするそうです。 但し、この説は又聞きなのでこの森林が、針葉樹なのか広葉樹なのか熱帯雨林なのか不明です。 でも、かの第二次世界大戦での日本軍兵士が熱帯雨林の中で多く飢えに耐えられず自殺している 実態を知れば、かなりの食物系を有する熱帯雨林でさえも人間が生きる為には容易でない事が理 解できます。 1haといえば10000u(100m四方)ですから、その1000倍!! 簡単に言えば3.16km四方の面積という事になります。 そして縄紋時代の人口ですが、ピーク時で日本国内25〜30数万と言われており、人口密度が 約0.89人/1kuと言う事なそうです。(小山修三「縄文時代」より) 1km四方に約1人が居るのでは、3Km四方に6人も居る事になり、自然物採集だけでは無理と 言う事になります。 ところが三内丸山ではピーク時で500人も住んでいた集落と言う事です。 上記説の自然物採集では5000kuの面積が必要となります。 つまり70.7km四方の面積でとてつもない広さを必要とするのです。 車でも持っているならともかく、自分の足だけで歩き回り食料を集める範囲としては広すぎるので はと思うのは、私が軟弱だからでしょうか。?? 日本の縄紋時代の前期から中期にかけては東北地方を中心に現在より結構暖かく、しかも四季 の豊かで森林がブナ等の紅葉落葉樹で有ったことが山の幸・海の幸を狩猟採集出来る要因だった と言われています。 さて、平成4年の統計ですが、1人1年間の米の消費量は約70Kgです。 しかしこの頃はパンや麺などの消費も多い為、米だけの消費は意外と少ないのです。 かの宮沢賢治が一日3合の米と・・と「雨にも負けず」・・に書いたように3合有れば十分生きて行 けます。 一日3合で計算すると年間約200Kgとなり、現代の収穫量は5000Kg/1ha程度との事 ですので、1人分を計算すると0.04haの水田で1人分がまかなえる事になります。 稲の品種や製造が未熟として現代の1/10の収穫量と仮定しても、0.4ha有れば1人を十分 に養える計算です。前記の1000haの1/2500の面積です。つまり約3Km四方が水田だと 2500人が生きて行けるという事です。これが弥生時代に人口が急増した要因でしょう。 で、三内丸山ですが、500人を養う為には1/5でいい訳ですから、200haを必要とします。 約1.4Km四方です。そこで山内丸山を見てみると・・・・・・ 三内丸山の遺跡からは、他の遺跡でよく見られるイノシシ、シカなど大型獣の遺体が少なく、 ノウサギ やムササビなどの小型動物、イワシ、ブリ、マグロ、タイ、ヒラメなど多彩な魚類の骨、 中にはクジラやオットセイの骨までも発見されている。 また、クリ、クルミ、ドングリなどの堅果類、イネ科植物であるイヌビエのプラントオパール(ガラ ス質の細胞)が大量に発見されてい ることから、集落の人口を支える重要な食料になっていたと いう指摘がある。 この他、ニワトコの種子とともに発酵物を好むショウジョウバエの蛹(さなぎ)らしきものが出土して いることから酒を醸造していた可能性も指摘されている。 縄文人の食生活は、基本的に狩猟採集に依存したものであったが、多種多様な物を食料源にし、 想像以上に豊かであったのである。 静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授が遺跡から出土したしたクリの実のDNA分析を行った結果、 規則的な配列が見られ、栽培されていたことが分かっている。 また、縄文前期と推定さ れる地層に残されていた花粉の分析を行った結果、クリの花粉が80%も 占めていた。このことから、クリ林を計画的に栽培し、管理していたのではないかと考えられている。 遺跡からはイネ科植物であるイヌビエのプラントオパールが大量に見つかっており、食料にしていた 可能性が高い。これが栽培されたものである証明はなされていないが、日本における農耕の起源の 見直しを迫るものとなるか、注目される。 青森県HP 三内丸山遺跡 より どうですか?すでに栗やヒエを栽培していた可能性が出てきているのです。 簡単なことです。これだけ緑と自然に囲まれていても同じ土地に住みつづけるにはそれなりの衣食 住のバックボーンが無ければならないのは明白です。陸稲でも稗でも栗でもいい、毎日毎年同じ収穫 量の食料を手に入れるにはどうするのか子供でも考える事です。 縄紋人とはいえ頭脳容量は現代人とほとんど変らず、知恵も工夫する力も異差は無いのですから、 いつまでも不確実な狩猟・採集だけに頼っていた訳ではないでしょう。 一個所に留まって集落を作るという事は、その時点で食料の確保に心配無いという事です。 小さな耕地での最大限の収穫の為に農耕を行ったのは確実と思われます。 さて、農耕とは水田作業ばかりを言う訳では有りません。畑作や焼畑だって、いや、植物が育ちやす いように、或いは収穫が多くなるように手を加える事も広義的には農耕でしょう。 っと、ここまで書いて以下の説を見つけ、驚いてしまいました。 現実的な山地寒村の自給自足から推測する収穫物はヒエ・アワ・タカキビ・コムギ・オオムギの他に ミズナラ・コナラ・トチ・クルミ・クリの堅果で、主食糧はミズナラ・コナラのナラの実である。 クリは甘味料にすぎない・・・・ という説です。(畠山 剛氏「謎解き 日本古代史の歩き方」彩流社) この説によると500人分で2.64Km四方のナラ林が有れば通年に渡る採取量を確保出来る試算と の事です。更にナラの実の加工法は、加熱処理が非加熱処理の6倍以上も効率よく実を利用できる。 と実践から導き出したこの説は十分うなずけるものです。 私は縄紋式土器の発達はここに有ると気付きました。広葉落葉樹林の宝庫であった縄紋東北地方 にあって、ミズナラ・コナラ・トチなどの堅果のあく取りに加熱をする事が一番の利用目的だったのです。 直接的には、煮炊きをする事によって食生活の範囲が多様化したと推測されますが、それよりも何より も どんぐりのあく取り これが第一だったのです。 あく取りには実を粉砕して、水を換えながら渋味が無くなるまで何度も搾り、でん粉質を沈殿させる 方法が有りますが、粉砕する時間が多い事や出来上がるでん粉質が採取した実の5%程度しか残 らないという欠点が有ります。(100Kgの実から5Kgのでん粉しか取れないという事です。) ところが、灰を入れて煮る事によって40%以上も利用できるのです。更に一度湯通しして再度乾燥 させる事により、通年に渡り保存できるのです。保存食の確保は集落の発展や文化の向上に寄与し ます。 縄紋式土器の用途はこれから始った。!!!縄紋式土器は、あく取り用のナベとして始まり、保存用のカメとなり修飾容器と発達して行きました。 食べ物の煮沸は二次的な用途で有った気がします。依って縄紋式土器は広葉落葉樹の実であるドン グリのあく取りを必要とした日本で大きく花開いたのです。 という事で定住のバックボーンとして 狩猟・採集+雑穀の農耕 が必要で有った。・・・が結論です。 |
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