1521系は昭和34年7月から国鉄63形割り当て車のモハ1501形のMT40形電動機を流用し車体を新製し製作された20m4枚扉の通勤車で、伝統の緑にオレンジ色の帯を巻いた車両でcM−T−Mcの3両編成でモハ1521形の中にサハ3801形を挿んでおり、4編成12両が帝国車両と日立笠戸工場で作られ1521〜1528、3801〜3804となり主に本線の普通列車として活躍しました。
翌36年からは同じ車体にモハ2001形の電動機を流用しcM−T−T−Mc編成がモハ2051形とサハ3801形で新製され、これは上半分が薄緑下半分が緑のツートンカラーで2編成が帝国車両で新製され、これらは2051〜2054、3805〜3808となり主に急行、準急に利用されました。
1521系はその後2051系と同じツートンカラーに塗り換えられ、昭和45年の秋頃からは2編成を4連化(cM−cM−T−T−Mcの様に)され主に普通列車で運用され、さらに昇圧前の昭和47年夏には本線を追われ加太線でcM−Mcの2連で運用され、2051系は昇圧改造直前まで本線で使用されておりました。
そして1521形は昇圧改造される際「新1521系」として車番は元のモハ1521〜1528として改造されましたが、モハの偶数車の難波方に運転室が増設され、私鉄では初めての20m4扉両運車となり、また2051形はMT40形の電動機に付け替えられ2051〜2053が1529〜1531に2054は電装解除されクハ3909となり、サハ3801〜3808には和歌山方に運転室が新設されクハ3901〜3908となり、全20両が支線用となり住之江、和歌山検車区に配属されました。
内訳は住之江検車区に天王寺支線用2連2編成、高師浜線用に両運車1両と予備車として、1522−3903、1529−3905、1531−3907、1524、が和歌山検車区には加太線用2連が4編成、多奈川線用2連1編成、和歌山港線両運車1編成、予備車、として1521−3901、1523−3902、1525−3904、1527−3909、1526−3906、1528−3908、1530が配属されました。
昭和59年11月18日から天王寺線の一部、天下茶屋−今池町間が廃止され今池町−天王寺間が残存する事となり、この区間に単行車両が2編成必要となり1524、1526が閉じこめられ、この2両を捻出するため和歌山港線が2連となり、和歌山地区から1526、1528の両運車が住之江へ、住之江の1529、1531、3903、3905、3907が和歌山に転属、余剰となった3908、3909が休車となり昭和60年4月に廃車され、和歌山に残った唯一の両運車1530は3903とペアを組みました。
昭和60年の6月からは萩ノ茶屋−粉浜信号所間が立体化工事のため汐見橋線が分断される事となり高野線の6000系から1521系に変更となり、和歌山から1521−3901、1529−3905、1530−3903の2連3編成が住之江に転属し和歌山地区から両運車が消滅しました。
平成元年11月のダイヤ改正で高師浜線が2連化されたため高師浜線で使用されていた1530が和歌山に転属し1523−1530となり主に和歌山港線で使用され、3902が住之江に行き1522−3903となりました。
平成5年4月に天王寺支線が全面廃止となり閉じこめられていた1524、1526が奇跡的に陸路運び出され整備され和歌山地区に配備され1524−1526のcMc−cMcの2連で主に和歌山港線で運用されました。
その後汐見橋線も工事のため南海線からの進入路を絶たれ1521−3901、1528−3903、1529−3905の3編成が閉じこめられました。
平成7年の7月まで和歌山地区の1521系は1524−1526や1531−3907が和歌山港線で細々と使用されており、1524−1526の編成は貴志川線の1201形4両を水軒駅で廃車解体するため和歌山検車区から牽引に使用され、また高野線から支線改造された21001系や22001系が入線するまでの少しの期間は、1531−3907が丸い行先版を付け釣り掛け音をなびかせ最後の力走を披露し、10月のお別れ列車として、汐見橋線から開放され10年ぶりに和歌山へ里帰りした1521−3901のTOPナンバーが使用されました。
お別れ列車が走る前の7月の上旬に8両が青森の弘南鉄道に売却のためJR線上を甲種回送され、1523−3902、1525−3904、1522、1530の6両が弘南線に、1524−1527が大鰐線に入線し、弘南鉄道では整備され白い帯を巻き、まず1523−3902の編成が8月下旬から使用開始されました。
幸運にも青森の弘南鉄道に譲渡された以外の車両は残念ながらTOPナンバーを含め10両すべてが保存されることなく解体された様です。