昭和45年の大阪万博の頃、4月から私は大阪への通学に南海を使用し、以前から興味のあった南紀直通客車列車に乗車する機会が出来ました。
サハ4801という南海の緑の客車を難波から電車が牽引し和歌山市駅からは国鉄の蒸気機関車が引き継ぎ、和歌山駅で天王寺からの客車と連結し新宮まで行くという筋書きでオールドファンの方はご存知だったと思います。
入学した春頃は名車2001系の3M1Tに牽引されていましたが、2001系が徐々に廃止されていた頃なので全廃後には何が牽引するか興味があった所、何と18m車で当時主に普通列車に使用されていた1551系に白羽の矢が当たり、夏の7月から4Mで牽引を始めました。
夜10時過ぎの難波発の特急のかぶりつきに初めて乗車した時の感想は、半室の運転室のため運転の状況がよく見えたせいもありますが、それはすごい迫力で、加速するときは釣り掛け音を轟かせ長い時間力行し、カーブの直前で強くブレーキをかけ急減速するといった、手に汗握る運転でした、しかし音の割には速度が出ず最高時速は100kmにはとても達していなかったと思います。
しかし11月のダイヤ改正ではスピードダウンし、クハ1901形を挿み3M1Tとなりましたが、以前ほどではないがまだ迫力のある運転でした。
この1551という車両は新造車ではなく、先日まで貴志川線で使用されていた1201形の車体と戦後国鉄向けに製造された63形のMT40形の電動機を組み合わせた物で、この電動機は先日まで和歌山港線で使用され青森の弘南鉄道に行った1521形が使用している物です。
しかしこの1551系、昭和30年頃には扉間クロスシートに改造され淡路連絡急行「なると号」や今の「サザン」の前身となった、四国連絡急行「あわ号」に各々クリームとスカイブルーのツートンカラーに塗られ専用車として活躍した履歴がありました。
南紀直通客車が終焉となった昭和47年3月14日以降も、早朝難波発の和歌山市行き普通で1往復使用されたり、廃止された天王寺線や単行で高師浜線に昭和48年の夏前まで使用され余生を送っていましたが、電動機を新1521系や電機機関車の5201形に譲り、お別れ運転もなく昇圧前にひっそりと姿を消してしまいました。