23は2代目で阪急からの中古車、晩年は連絡口の横で休車となっています。
現在の23は2代目で元阪急の1形26の車体と南海から譲渡されたブリル台車52Kw
電動機2個を組み合わせて1957年(昭和32年)に竣功した車両で旧23の車籍を継承し改造した事に
なっています。
種車の阪急1形26は1911年(明治43年)に汽車会社で製造されたが、野鉄では1914年(大正3年)製となっており1948年(昭和23年)に付随車となり主に宝塚線で活躍、1950年(昭和25年)に半鋼体化と両端広幅貫通式に改造された後1957年(昭和32年)野鉄に入線の際、やや丸みのある運転台を取り付け、屋根もダブルルーフからシングルルーフの丸屋根に大改造を関西交通工業で受け使用され現在に至っています。
同時に阪急1形3も野鉄に譲渡され2代目24となったが、こちらは1961年(昭和36年)に阪神の
604の車体に乗せ変えられました。
阪急1形は8が1955年(昭和30年)に和歌山鉄道(現在の南海電鉄貴志川線)に譲渡されクハ800形804として南海電鉄に吸収合併された後1969年(昭和44年)まで活躍していました。 |
しかし23も1965年(昭和40年)頃、野鉄が阪神から861形4両を購入した際、内1両を23の車体と振り換えるという計画もあったそうですが、これは計画倒れとなったようです。
24と共に3枚扉で扉幅は他よりも狭かったが、野鉄では最大長の車でラッシュ時に活躍していましたが、寄る年波には勝てず晩年には休車となっており、連絡口近くに雨ざらしで放置されていたのでよく目につきましたが、廃止後もそのまま残され、阪急にも引き取られる事無しに駅と共に解体されてしました。
雷雨の夏の夕方の下り日方行きであったが2両目のお客は私と子供の2人だけ、貸し切り電車のようでした。 |
なにか風格を感じる23号の造作