ホームコメントしなかった作品天文学者と地理学者アントニー・ファン・レーウェンフーク

アントニー・ファン・レーウェンフーク

 
 天文学者と地理学者のモデルになったアントニー・ファン・レーウェンフークについて、NY在住の先生MOKUMOKUさんから詳しい人物情報を教えて頂きましたので、ここに掲載いたします。MOKUMOKUさんありがとうございました。また、旧教会のレーウェンフーク関係の写真は、Takさんに提供して頂きました。Takさん有難うございました。

 レーウェンフークとレーベンフックは、読み方の問題です。



天文学者



(1)フェルメールとレーベンフックの関係について 

 フェルメールの絵「天文学者」・「地理学者」のモデルはレーベンフックといわれています。彼は、フェルメールと同じ年にデルフトに生まれ、そこで育ち、そこで生活し、そこで死に旧教会に眠っています。フェルメールの死後未亡人カタリーナのために財産管理人に指名され、フェルメールの2倍以上の年月を生き91才で亡くなりました。財産管理人といっても、フェルメールには死亡時には8人の未成年児がいて、カタリーナには財産どころか借金しか残さなかったので、借金処理係だったのです。


 レーベンフックは、1632年10月24日に生まれ、11月4日にデルフト新教会で洗礼を受けています。一方フェルメールは同教会で10月31日に洗礼を受けており、二人の名は新教会の洗礼登録簿のまったく同じページに記録されています。ほとんどのフェルメールの伝記は、画家の生まれた日を1632年10月31日と記していますが、これは新教会の洗礼登録簿の記録に基づいているのであって、誕生日というのは正しくないでしょう。彼の本当の誕生日については記録がありません。

レーベンフックの墓

(写真提供・Takさん)

 また、レーベンフックが、「天文学者」・「地理学者」のモデルであったという証拠も残っていません。「天文学者」・「地理学者」ともにフェルメールが命名したものではなく、後年そう呼ばれるようになったものでしょう。ただ、同時期に生まれていること、たがいに近くで育っていること、レーベンフックがアムステルダムの生地屋で徒弟奉公にいっていた6年間(1648−1654)以外は、ともにデルフトで生涯を送ったこと、二人のあいだにはレンズ・暗箱カメラへの興味が共通していたこと、などからレーベンフックとフェルメールが生前親しい関係にあったという可能性はきわめて高いといえるでしょう。

(2)レーベンフックの職業と業績

 アントニー・ファン・レーベンフック。職業は洋服の生地、ボタンを商う小売店主。正規の教育を受けていないため、当時学者にとって必要とされていたラテン語も英語も読めせんでした。生地屋を営むかたわら副業で、デルフト市役所の門番・雑用係をやっていました。市役所で会議がある際、石炭に火をつけて部屋を暖め、会議が終わって役人が帰宅したあと、火を消したりするのが彼の役目でした。現在、マルクト広場に新教会と向かい合っている市役所は17世紀のままで、世にも美しい建物です。フェルメールもカタリーナと結婚したとき、この市役所に婚姻届を提出しています。

デルフト市役所

(写真提供・MOKUMOKUさん)

 それでは、生地小売店主であったレーベンフックがなぜ現代まで人々に記憶されているのでしょうか。それは、彼が生地やボタンを売ったり、ストーブに火をつけただけでなく、オランダの生んだ最大の科学者の一人であるからです。

 レーベンフックの研究はすべて彼の手製の単眼顕微鏡を使ってなされています。もともと生地の良否を判断するためレンズを磨いて顕微鏡を作ったのが、それにとどまらず、無数の生物学的発見につながったのです。彼の業績のなかで有名なものには、赤血球とその変形能の発見、腸内細菌の発見、人間の精子の発見などがあります。

(3)誰にもまねできないレーベンフックの素敵な研究

 さらに、レーベンフックについては面白いエピソードがたくさんあります。ノミやシラミを研究していたときは、いつも白い靴下をはいているのにシラミの生体を観察するため黒い靴下にかえ、靴下のなかでシラミに卵を産ませ、成虫になるまで足で温め、シラミがはい上がってこないように、靴下の上から脚をゴムでしばっていたが、何日かたつと痒くてたまらなくなり一度で止めてしまいました。
 

 また、口内の細菌を観察したときは、じぶんは毎日歯を磨いて50代の人にはめったにないほど歯が白くて歯並びがそろっているけど、そんなわたしの口内にいる微生物の数はオランダ全土の人口より多いと報告しています。さらに、生涯に一度も歯を磨いたことがないという老人の噂をきくと、さっそく飛んでいって歯クソを所望し、観察しています。


 他にも、下痢したときは、便を顕微鏡で見てふだんと違っていないか調べています。晩年、病気になって食べたものを吐いたときは、さっそく顕微鏡を取り出して、鼻から出たものと口から出たものを比較しています。 


 ウジ虫を飼っていたときは、虫の入った箱をいつも身体で温めていたが、外出するときは、夫人のコルネリアに洋服の下にいれて温めておくようにたのんでいます。コルネリア夫人もまたよく出来た女性で、夫にいわれるままにウジ虫の箱を体で温めていました。


 最大の発見は、1673年にロンドン王立教会に送った報告で、「健康なときは赤血球は必要におうじて形を変えることができるが、病気になると赤血球はかたくなり変形することができなくなる。病気が治ると、赤血球は変形能を回復する」と書いていることです。これは、21世紀にわれわれがやっている赤血球変形能の研究とまったく同じです。

 1680年、ロンドン王立協会がレーベンフックの業績を認め、協会の正式メンバーに認定したとき、デルフトの人たちは、あの呉服屋はそんなに偉い人だったのかとびっくりしたそうです。しかし、デルフト市民はレーベンフックが死ぬまで彼のやったことを信用していませんでした。レーベンフックのことを、実際には存在しないものを存在するように見せる「手品師」だと考えていたのです。レーベンフックは、「手品師」といわれるほうが「詐欺師」といわれるよりはマシだと考えていました。



(4)まだまだあるぞレーベンフックの面白いエピソード

 レーベンフックが有名になると、ヨーロッパ中から科学者が彼の家を訪問するようになりました。王立協会に属する科学者が彼を訪ね、彼の顕微鏡について「確かにレンズはきれいに磨いてあるが、他で試用されている顕微鏡にくらべて倍率はよくない」と報告しています。レーベンフックの顕微鏡は、最高266倍のまで拡大できたのですが、かれは他人には出来のいい顕微鏡は見せなかったのです。うっかり見せると、その顕微鏡をくれといわれるかもしれないとおそれたのです。それは、客をおいて隣の部屋にいくときは、かならず顕微鏡を持っていったということからも確かでしょう。

旧教会のレーベンフックの展示品(1)

(写真提供・Takさん)

 科学者だけでなく、ヨーロッパの王侯貴族も彼の家を訪ねました。その中には、イギリスのチャールス2世の妃キャサリーン女王やロシアのピョートル大帝もいます。レーベンフックは、運河に停泊中のピョートル大帝の船内で、うなぎの尻尾をつかって血液循環の実験を2時間やって見せました。背が高くハンサムだったピョートルは、ロシアを西洋化するために巡視船でヨーロッパを回っていたのです。先進国オランダの言葉を解し、レーベンフックとはオランダ語で会話ができたそうです。レーベンフック自身は来客をもてなすことが好きでなく、「客が来るといそがしくなり、汗をかくから嫌だ」といっています。

旧教会のレーベンフックの展示品(2)

(写真提供・Takさん)


(4)優れた科学者であったレーベンフック

 レーベンフックは生涯にすくなくとも247台の顕微鏡を作成しました。どれも胸のポケットに入るくらいの大きさです。彼の死後、遺言で23台が娘の手によって王立協会に送られました。現存が確認されているのは9台です。ライデンの科学博物館で現物を見ることができます。

レーベンフックの顕微鏡

(写真提供・MOKUMOKUさん)

 レーベンフックがすぐれた科学者だった証拠は、じぶんの理論や仮説が間違っていたとわかると、躊躇せずそれをあらためたことです。学者にはそれがやさしいことではないのです。それから、なんといっても彼の最大の業績は「生物自然発生説の否定」だと思われます。当時の人たちは、ノミやシラミは不潔にしていると自然にわくと信じていました。レーベンフックは、生き物は必ず両親から生まれる、馬の赤ん坊がいきなりゴミ箱から飛び出すことがないと同様、ノミもシラミも両親がいないと生まれないと主張しました。この考えが、世の中に受け入れられるには、200年後のルイ・パスツールの出現を待たなければならなかったのです。


(5)終わりに

 ここに書いたレーベンフックについての資料は、ほとんどアムステルダムのアカデミック・メディカルセンターの主任で、わたしの友人でもあるマックス・ハーデマン博士から提供されたものです。彼は血液学者ですが、レーベンフックの研究家でもあり、レーベンフックについて海外でもよく講演をしています。ハーデマンくんは、アムステルダムのレストランで、「毎日毎日昼間からじぶんの精液をしぼって顕微鏡でのぞいている(レーベンフックの顕微鏡は太陽光線の下でしか使用できなかった)亭主を見て、カミさんはなんと思っただろうね」といって笑いました。わたしはとっさに、「亭主の好きな赤烏帽子」ということばが頭に浮かんだのですが、オランダ人に説明するのはむつかしいと思ってだまっていました。


顕微鏡を診るレーウェンフーク

(写真提供・MOKUMOKUさん)


地理学者



 これは凄い情報ですね、私が以前にレーウェンフークについて記載した内容(⇒天文学者と地理学者)から受けるものは学者タイプの人物です。ところが洋服の関係の仕事が本職だったというのは、驚かされます。細分化された今の時代では中々考えられないことです。また、レーウェンフークという人物の面白さを節々にみることができます。私も一応医学をを学んだものですから、MOKUMOKUさんの文章の、『赤血球の形態』のところは、ドキドキさせられました。


 今度デルフトに行って旧教会を訪れて時にはレーウェンフークの墓を探してみたいと思います。その前に、フランクフルトの地理学者を是非観ないと・・・(笑)。



(2005年6月13日作成・6月21日加筆)
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