ベートーヴェンの交響曲第9番に込められたもの
勝手な結論として、どうして日本でもてはやされるのか。
(マユにツバつけて読んでくれ)
全世界の中で、日本が最も頻繁に「第9」を演奏しているという。それはいったいなぜなのだろうか。まず、いろいろと理由を書き出してみたいと思う。
(1)なにせ有名だから。(ベートーヴェンだから)
(2)もうかるから。
(3)合唱部分をアマチュアに任せると、費用が浮くから。
(4)2回以上公演しても、聴衆を動員できるから。
(5)派手で、めでたいから。
(6)合唱部分が、じつは短くて簡単だから。
(7)合唱部分の主題が、歌いやすく覚えやすいから。
(8)指揮者や演奏家には、やりがいがあるから。
(9)曲の出来がいいから。
(10)何度も演奏しているので、練習時間が短くて済むから。
いろいろあるだろうが、結局、3点に集約できるだろう。
・名曲だから。
・採算がとれるから。
・皆が演奏したい、歌いたい、聴きたいから。
なんだ普通じゃないか。これらの理由はもっとものことと思うが、しかしこれでは「年末にやる意味」が全く欠けている。どこかに年末でなければいけない理由というのがあるはずだ。それはどこにあるのだろうか。
そこで、ダジャレ好きで著名な作曲家、池辺センセは、「忠臣蔵説」を唱える。池辺センセは、公共の電波でダジャレを披露できる数少ない「ゲージツ家」である。忠臣蔵はご存知の人も多いはずであるが、主君に誠実に仕えた武士たちが主君の無念を晴らそうとする実話である。年末、雪振る夜に無念が晴れたということで、毎年年末に映画やドラマが放映されるのは承知の通りだ。
池辺センセによると、第9にも、これと同じような思い入れがどこかにありませんか、ということである。強引であるが、それにより年末に関連づけることはできないだろうかという意味である。しかし実際のところ問題がおおありだ。
私も含めての音楽好きの連中は、「忠臣蔵」なんてどうでもいい世代が大半を占めているのである。したがって忠臣蔵説は全くもって成立しない。成立するならそれは、非常に年配の人たちのみになる。というか、第9は年末とは関係ないはずだ。敵討ちと世界の友愛とは全く関連が無い。
忠臣蔵はここで忘れ去るとして、そもそも注目しなければいけないところは歌の内容だ。それも、シラーの「歓喜に寄せて」の全文を採用していないという事実であろう。もし全文が採用されていたら、第9はアマチュア合唱団員の目標たりえたであろうか。その場合の問題点はこうなる。
(1)歌詞が長くなって意味が散漫になり、アマチュアでは歌えなくなる。
(2)楽曲構成上も冗長になり、交響曲の1楽章として成立しなくなる。
抜粋されたことで理念はわかりやすくなり、短くなり、そして、とっつきやすくなっているはずだ。
シラーの「歓喜に寄せて」のベートーヴェンが使用した部分、あるいは全文などについては、ここを参照。邦訳が完全に適しているかどうかは、問題があるかもしれない。
もし全文を採用してしまうと、その結果「カンタータ・歓喜に寄せて 全40分」などという作品になる。すると、アマチュアの合唱団は演奏に二の足を踏むだろう。いやその前に、それほどの長さになると、ミサ・ソレムニスの兄弟作品になるが、こういう合唱曲は、日本の、それもアマチュアには聴く前に敬遠されてしまうだろう。このシラーの「歓喜に寄せて」を全人類にあまねく演奏し聴いてもらうためには、絶対に歌いやすくなければならず、人気や演奏頻度の点で、これまでの8曲の交響曲に続いて存在する必要があったのだ。そう、交響曲第9番という位置は必然だったのである。そしてあの内容は限界ギリギリだったのだ。そこに、この交響曲の一見アンバランスで理解しがたい構成になっている理由があるのだ。そうなるように無理に仕向けたのは誰か。解答はしばらく後で書きたい。
それでも、頻繁に演奏されるのが「年末」でなければならない理由は見つかっていない。
[ここからは、一種、メルヘン的である]
さて、大きく話題はそれるが、あなたに質問だ。「なんとなく、こうだ」ということをあなたは持っているだろうか。
たとえば、「モーツァルトは大好きだが、ワーグナーは嫌いだ」としよう。それがなぜなのかわかるだろうか。解答はあるのだろうか。なんとなく、としか答えられないことがかなり多くあるのではないだろうか。
中には、親がワーグナーばかり聴いていて、しかも幼少のときに自分が親に叱られてばかりだったという人がいるかもしれない。すると、ワーグナーはトラウマになるかもしれない。「ワーグナーなんて、大っ嫌いだぁ!」と。しかし、大多数の人には全く理由は無いはずだ。私のことを言うなら「たとえばハイドンはどうでもいいと思うが、ベートーヴェンは常に気にしている」となる。理由なんてわからない。家族にも親戚にも近所の皆々様にも、ハイドンやベートーヴェンを聴く人なんて、いないからである。こうなる理由は何であるのか。
なんとなくとしか言えない。世の中にはあまりにも多い、「なんとなく」が存在するのである。
そう、ベートーヴェンの交響曲第9番が、日本で、しかも年末に限って頻繁に演奏される理由は「なんとなく」なのである。
それでは納得しない頑固な御仁がいるから、いけないのですがね。
しかし、なんとなくやってることって、誰にでもいくつでもあるじゃないですか。「マーラーは好きだがブルックナーは嫌いだ」「ブルックナーは好きだがマーラーは嫌いだ」という理由も、「なんとなく」である。論理的に筋道をたてて自分の趣味を説明できる人がいたら、ぜひお願いしたいものである。
つまり、交響曲第9番はなんとなく日本人の趣味に合っている、となる。
それでも、まだ疑問は生じる。日本が古来から受け継いできた民謡などの各地に伝わる音楽を、現代人がほとんどといって無視するのはなぜだろうか。それらは、日本人の肌に合ったものではなかったのだろうか。おそらく、現代になって合わなくなってきているのだと思う。日本人の趣味は、ある時点で、ずれてきてしまったのではないか。そうも簡単に、ずれてしまうものかなと思うが。
このとき、ふと思うことがある。じつは、「日本人は交響曲第9番(とくに合唱の部分)を盛り立てなければならない」という観念が植え付けられているのではないだろうか。だから、なんとなく演奏しなきゃと思うのである。では、誰にそのような観念を植え付けられたのだろうか。
誰に?
「星々が輝く宇宙のかなたに住みたまう神様」に、である。神様なら、いとも簡単にやってしまうことであろう。
いつから?
「交響曲第9番が、日本に伝来してから」である。そうなると、日本に輸入された西洋音楽の中心的存在が、ベートーヴェン付近だったことは、あながち的外れではない。
では、どうして?
簡単だ。「第9の歌詞に含まれている理念を言霊(ことたま)として世に広めるため」である。世界よ、平和であれ! 世界の人々よ、兄弟となれ! 世界平和の実現を目指せ!
ここで、無理やりに「歓喜に寄せて」を交響曲第9番に含めてしまったのは誰か、という疑問への解答が、自ずから明らかになる。そうなるように仕向けたのは、そう、「星々が輝く宇宙のかなたに住みたまう神様」である。モーツァルトのような天才を引き合いに出すまでもなく、超芸術作品は、理論をこねくりまわして出来上がるものではない。一種の霊感が根底に存在するのだ。急に頭の中にひらめくのである。その霊感を与えるものは、ここで神様だと結論づけても文句は言われまい。
しかし、まだまだ、演奏会が年末でなければならない理由はないように見える。神様は、年末が好きなのだろうか。いや違う。強いて言うなら、年末が意味する、もうすぐ来る「新しい年」というものを、「新しい時代」の象徴として扱っているのである。そう、交響曲第9番をもし第1楽章=「苦難と努力」、第2楽章=「前進と熱狂」、第3楽章=「平穏への願い」などというお題目として無理やりに唱えるならば、そこに続く「平和、友愛」の第4楽章こそが全人類にとって最も尊いと歌うことができるだろう。そのとき、それは演奏の直後に「新しい年」=「新しい時代」が来ているよ、それは「平和、友愛」の時代なのだ、という意味を示しているのである。日本人が年越しの大祓え(おおはらえ)を行い、全ての穢れ(けがれ=前半3楽章に執着することを言う)を拭い去って新しい年に心機一転向かうように、人類にこびりつく全ての穢れを消し去って、新しい時代に向かうための応援歌、すなわちそれが交響曲第9番なのである。
ここで誤解の無いように言っておくが、前半3楽章への執着を「穢れ」と位置づけたとき、前半3楽章は無くてもいいという意味ではない。「現実的な人間の営み」として、絶対に必要であることは間違いない。ただし、それよりももっと大切なことを忘れていませんか。それを忘れてしまい、「現実的な人間の営み=前半3楽章」ばかりに目を向けることが、すなわち「穢れ」なのである。
ここに、日本人のおおいなる目標が現れた。
交響曲第9番は、普遍的に世界にアピールする歌詞を持った、西洋クラシック音楽における最初の超大曲だ。そのあたりが、キリスト教に限定されたヘンデルの「メサイア」と異なる点であろう。
その曲が、これほどまでに日本で演奏を重ねているというのであるから、日本人はそこに含まれている意味というものを世界に広める大役を担っているように私には感じられるのである。
(2004.3.2)