ベートーヴェンの交響曲第9番
「第1楽章の雑学」
はじめに
難しいことは抜きにして楽しむ、第9。というのが理想ですが、そんなことはおかまいなしに、各内容は、つれづれに書かれています。文中、(b.???
)とあるのは、小節番号です。文中の、あちこちにある話は、出典/出典不明を大して覚えていないので、それなりに記述しています。小節番号は全音楽譜出版社が出版しているオイレンブルグ版(?)スコアのものです。
1.使っている音符の種類
どこかの誰かさんが、こう言ったそうです。1オクターブの間には12しか音がないのだから、その組み合わせでしかないメロディーは、いずれ新しいものが生み出されなくなって枯渇するんだとか。そんなことはないぞと思う私。そうですよね。
さて、ここでは、使用している音符の種類について考察(?)しましょう。音符の種類も限りはあるわけで、そこは音楽の教科書なんかを見れば、一応それらしきことが書いてあります。
全音符、2分音符、4分音符、以降、旗が1枚、2枚、あるいは点が1個、2個と付け足されているとか。
では、3曲の、第1楽章を比べてみましょう。
第9 英雄 交響曲第5番(オーボエのカデンツ除く)
拍子 2/4 3/4 2/4
2分音符 ○ ○ ○
4分音符 ○ ○ ○
付点4分音符 ○ ○ ○
8分音符 ○ ○ ○
付点8分音符 ○ × ×
16分音符 ○ ○ ×
付点16分音符 ○ × ×
32分音符 ○ × ×
短前打音 ○ × ×
4分音符の6連符 ○ × ×
トリル ○ × ○(ティンパニのみ)
16分音符トレモロ × ○ ×
32分音符トレモロ ○ × ×
以上のように見ると、交響曲第5番は凝縮されムダのいっさいない曲という評価がされるのも、なんだかもっともだと思わせます。逆に「第9」の方は、なんだかいっぱい詰まっていそうだ、と思わせます。もっとも、「第9」の方がテンポがゆっくりですから、そりゃ、32分音符も書けるよ、と言われれば、それまでです。
2.付点8分音符の価値とは。
ここで面白いのは付点8分音符です。「第9」は、いたるところで付点8分音符が出てきますが、特に重要なのは二ヶ所。それは冒頭第1主題で、念を押すように付点8分音符が5回出現し、音程を上げていくところ(b.21例1から)。もうひとつはたとえば展開部のフガートの直前に、管楽器がやわらかに付点8分音符を4回出現させ、音程が下がっていくところ(b.214例2から)です。
ここを聴くたびに、「8分音符のテヌートでもない、4分音符のスタッカートでもないのはなぜなのか」と思い「付点8分音符だからこの響きがあるんだなあ」と妙に納得するのです。コーダではその音型にフルートが合いの手を入れるところ(b.511から)がありますが、そこを聴くと、他の同様個所にある付点8分音符の直後の16分休符の長さというものがいかに重要かわかるのです。休符は音符と同等の音楽的意味を持つという、良い例であると思います。
3.音符の種類が多彩であるということは内容が多彩なんだろうな。
実態はその通りで、交響曲第5番はホントに第1主題のみから派生しているように見えます。逆に、「第9」は、主題もじつにさまざまな要素がからまっています。それはなだらかな下降音型(b.92,b.120,b.138など),が多種組み合わさって、第1第2の主題を盛り上げ、じつに多彩な様相を見せるのです。
こういう多彩さというのが、たぶんベートーヴェンは好きだったのだろうと思います。なぜなら、交響曲第5番第1楽章のようなものは、じつはホント稀な存在ですし、本人は「英雄」が一番好きだったようですから。即興演奏も有名だった人で、その演奏内容は、逸話などを読むとやはり多彩で感動的だそうですから、さまざまな旋律が組み合わさったような曲が好みだったのでしょう。交響曲第5番はベートーヴェンの代名詞のように思われていますが、彼の意志を大切にするなら「英雄」「第9」がもっと前に出てこないといけないのでしょう。とにかくシンドラーが変な逸話を作って、日本人がそれを持ち上げたのも原因のひとつでしょう。
4.根底の国から盛り上がるそのエネルギーとは。
話は変わります。第9の第1楽章に、「根底(ねそこ)の国」とでも言えるような部分があります。「根底の国」とは地獄の底の底の大変恐ろしい世界のことですが、「第9」の場合は別に恐くはないんですが、その個所とは、展開部の半ば過ぎたところ、フルートが「タカタカ」と面白く降りていき、チェロが跳ねて上っていくところ(b.267から)のすぐ後(b.274例3)です。一番面白く表現しているのは、フルトヴェングラーです。バイロイト盤などで聴いてみてください。なにか、おどろおどろしものがあるような、そんな表現で、そこだけ妙に遅めで、意味深く思えるのです。そこから徐々に立ち直り、延々とクレッシェンドを行い、2度めの「タカタカ」(b.297から)の下降は強奏で、そしてあの強大な再現部に突入するのです。
フルトヴェングラーのファンとしては聞き逃せない、ずしりと重く鳴る「根底の音」です。ご注意ください。
5.冒頭の空虚5度が、再現部でコントラバスにより解決する。
よく解説で言われるのが、冒頭の空虚5度。長調か単調かわからない和音です。それゆえに、何が起こるかわからない期待感があるとか、説明されます。そして再現部ではコントラバスが、欠けていた第3音を鳴らすことで、和音が確固として鳴るということです。
さて、これと同じことをしている曲があります。それは、リヒャルト=シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」で、冒頭はあの有名なC−G−Cのトランペット。第3音が欠けています。それがじつは、曲の終わり近くでの再現部で、コントラバスなどの超低音楽器がEの強烈な持続音を鳴らす中、管楽器をはじめとする残りすべてが、C−G−Cのあの旋律を中心に、鳴りまくるのです。同じなんですね、考え方が。第3音が欠けると空虚であり、満たされると、充実です。空虚な和音は混沌で、原始で、隠されたものであり、満たされた和音は秩序で、具体的、現実的、顕現なのでしょう。
こんなところにも、「第9」の影がある、という面白い一例です。
6.主題提示部は繰り返し指示がない。
交響曲としては、この「第9」で、はじめて提示部末尾の繰り返し記号(b.162にありそう)が消えました。なぜ消えたのか? 曲としてのまとまりが悪くなるからなのですが、これは、「英雄」と少し関連があります。ベートーヴェンは、「英雄」でも第1楽章の主題提示は繰り返し記号があるにもかかわらず、本人としては繰り返しをしなかったそうです。ソナタ形式をひとつのドラマとして見たときに、繰り返しは邪魔と見えたのでしょう。お好きな方は「英雄」の該当個所をじっと見て考えてください。きっと冒頭へ戻るなどということは、考えられなくなることと思います。第9の繰り返し省略は、古典派の慣習から逃れた、ひとつの例です。ソナタ形式は提示部と展開部が有機的に統一がとれているほど、提示部の繰り返しは困難になっていきます。
7.第1第2バイオリンは左右に分かれないと意味がない。
今は昔、アメリカで、「ストコの旦那」とかいうジイさん指揮者が、オーケストラの鳴りっぷりのことを研究した結果、第1、第2バイオリンを左側に、隣同士で配置しました。だから何なのか? いまもって、何の疑問もなくほとんど全てと言ってよいほどに、世界中のオーケストラは「ストコのジイさん」の遺言をなんとなく守っているのだ。
バイオリン以外の楽器配置が多少異なることはあるが、とにかく第1第2バイオリンは左に偏っているのである。これは何を意味するのかというと、「ストコのオヤジ」が幅を利かす前の作曲家が「第2バイオリンは右にあるもんだ」と思って作曲した曲の全てが間違って演奏されて、曲の真の姿が隠されてしまうということなのだ。これわ大変なことだ!
たとえばb.132例4から。ここは、バイオリンが左右に分かれていなければ意味のないところなのだ。ほかにも、b.88からとか、b.96から、b.120から、b.259からなど、それはもういたるところにある。もしこの曲のスコアを読み切った指揮者がいるとするなら、何の意味もなく「ストコの亡霊」の言いなりには、ならないはずなのである。それが当然なのだ。「第9」を好きなあなたなら「ストコのじっちゃん」にまとわりつかれた指揮者に「謎は全て解けた。ちゃんとやれ」という一言をかけてあげるべきなのだ。
8.「謎は解けるか」
b.516例5の謎。ここはトランペットとティンパニがずれて音を出すが、はて、ずれていて正解なのだろうか。原譜は、どうなっているのだろう。そうそう、最近出版されたという「第9」原典版はどうなっているのだろう。いずれ買って調べようと思う。原典版を持っている人は、どうぞ調べてください。ずれているのが、面白くもあるので、このままでいいように思います。
9.私の好きな一瞬は、ここ。
ずばり言いましょう。b.452,453です。b.452にある、末尾の32分休符で、ため込んだ力が次の小節で爆発します。下降する楽器群と上昇する楽器群の中で、ティンパニが深みのある充実した音を持続させるとき、猛烈なうねりが魂を揺さぶるのです。ここも、いわゆる巨匠クラスの指揮者は印象深く演奏します。逆に、すんなり通過させる指揮者は、どうしようもありません。