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  5. 交響曲第9番第4楽章

ベートーヴェンの交響曲第9番
「第4楽章のおさらい」


1.構造上の問題
 この楽章の複雑な構造については、日本では諸井誠氏などが「協奏曲形式を中心とした変奏曲」として解説を加えていますので、そちらをご覧いただくとよいでしょう。書くと長いんですよ、これ。
 「第9」のように、充実した前3楽章の後ろにこのような、一見ただの変奏曲に見えるものがあるのは、変に見えます。ですが「英雄」がやはり最終楽章に変奏曲を持ってきたこと、彼がソナタ形式と変奏曲の名手であることを考えるなら、「第9」の最後に変奏曲が配置されることは当然の帰結であるわけです。

2.天使ケルビムって、誰?
 音楽とは直接関係ないのですが、詩に天使「ケルビム」が出てきます(b.311)。天使というと可愛らしい赤ちゃんのような天使や、きれいな女性を思い浮かべるのですが、ケルビムというのは、日本でいえば不動明王のような、たくましい天使なのだそうです。ですから、可愛らしく歌ってはいけないということになるのです。合唱の皆さんがそこまで考えて歌っているかどうかは疑問です。なお、ケルビムはモーゼの十戒石の収まる契約の箱を守る天使ということです。

3.ポケットスコアには書いてないぞ。
 演奏によっては、b.116例1からファゴット2本が鳴る場合があります。1本は楽譜にある通りで、もう1本はコントラバス(の1オクターブ上)と同じ旋律を演奏するというものです。これは、ブライトコプフ版スコア等に記載されているというもので、自筆譜にもメモが記載されているのです。が、私はファゴットが2本とも鳴るのは、趣味ではありません。ファゴット1本のみの動きが非常に面白いからです。2本で演奏されると、損した気分になります。

4.ここが面白い(俗っぽいけど1回しかやらないぞ)
 b.550例2のトランペットの合いの手。合唱が気持ちよく歌うところでの、この合いの手は、俗っぽくて面白い一瞬です。聞き逃すと、ちょっと残念。b.558,574にも似たサビがありますが、これは2回やってくれますから。

5.これ、書き方が悪いんだ(オイレンブルグ版ポケットスコア)
 この楽章では全体としてニ調トランペット2本の編成ですが、b.331のAlla Marciaからは、変ロ調第4トランペットがひとりで軍隊の信号ラッパのように演奏に加わります。実際は、第2トランペットなどが持ち替えて演奏します。さて質問です。第3トランペットは、どこへ行ってしまったのでしょう。結局楽譜にあって、ないのですね。これは、このスコアが悪いんです。ブライトコプフ版などを見ると、ちゃんと書いてあります。
 ここでのトランペットの時々鳴る「合いの手」は、面白いですよ。

6.アポジャトゥーラはパソコン通信で熱心な討論が行われた
 b.16(低弦)とb.221例3(バリトン)は、音の進行が異なります。声楽において、b.221のように同じ音が2つ続くある特定の場合においては、前の1音が2度上になる(つまりb.16のようになる)というのが、昔の習慣(アポジャトゥーラ)だったそうです。CDなどでも、約半数はこの2度上げを実行しているようですが、この件についてはNIFTY-Serve(1996当時。現在は@Niftyと改称)のクラシック音楽フォーラムで結構話題になり、議論は熱気を帯びてました。しばらくすると、「レコード芸術」誌の読者投書ページに投稿がありました。実際のところ、声楽家やその手の研究家に話を聞けばそれで解決してしまう問題ではあります。
 ですが、2度上げが昔の習慣なら現代の習慣が昔と変わっても問題はないわけで、2度上げない演奏というものも、あっていいわけです。習慣だからということだけで楽譜が楽譜通り演奏されないのは、かえって問題ではあります。逆に、習慣など気にしないで記述してほしかったとも言えます。

7.神様について
 別に、宗教を論ずることはしないのですが、この歌が日本人でも違和感なく歌われているのは、たぶん、宗教的言葉の使い方にもあるような気がするのです。(他の理由には、歌いやすい旋律、歌の部分が短いなどといったものがあります。)それは、「神」という言葉はあるが「イエスなどの人名がない」ことです。たとえばヘンデルの「メサイア」がどうだかは知りませんが、「第9」では「イエス」だの「キリスト」だのといった、キリスト教圏特有の人名が入っていないところが、日本人でも歌いやすい親しみやすいところなのではないか、ということです。
 やはり「イエス」と書かれてしまうと、本人をよく知っている人ならともかく(いるのか?)、普通ならいろいろと聞きかじっただけのイメージが頭の中に出てきて、人によっては意識の中でつまづくこともあると思うのです。ですが、シラーの元の詩にも「イエス」などの言葉が無いかわりに、「神」という、どこの国にもありそうな言葉が存在するということで、宗教的に気にする人も自分自身の「神」を思い浮かべることが少しは可能になるのではないかということなのです。
 そりゃま、「ケルビム」という天使の名もありますけどね、これは意識の中で、すんなり通過してしまうと思うのですよ。ほとんど知識がないから。また、「神」というのも各民族で微妙に違いますが、それは横に置きましょう。
 もともとシラーの詩は「自由」を賛美するのが主体のものだったそうですから、彼としてはここで無理矢理「イエス」という人名を出してくる必要もなかったわけです。また、ベートーヴェンも教会に行くような信者ではなくて、「自然に神あり」と感じていた人ですし、東洋の宗教にもかなり興味を持っていたようですから、ふたりとも「イエス」「キリスト」には言葉の上であまり執着がなかったのでしょう。
 そういうことがあって、しかも「クリスマス」など平気で日常に組み込んでしまう日本人ですから、かくもこのように頻繁に歌われるのでしょう。

8.アラ・マルチアについて
 ここでトライアングル、大太鼓、シンバルという3種の打楽器が登場し、フルートではなくピッコロが加わって行進曲になります。この、新たに加わった4種の楽器構成で思うことは「トルコ行進曲」のことです。
 劇音楽「アテネの廃墟」にある、有名なトルコ行進曲は、やはりこれら3種の打楽器とピッコロが活躍するものです。つまり、アラ・マルチアは、「まず」トルコの音楽と思うのが正解なのですね。ですが、ただそう思っていてはいけないのです。トルコ音楽は、確かに当時ははやりものだったようですが、この「第9」では、「トルコ」という国や地域ではなく当時の情勢とは違う「新しいもの」「別なもの」と思って聴いた方がすんなりいくと思うのです。
 ある解説では「トルコ」ではなく「未来」を想定している音楽だ、というものがありましたが、そこまで言うとうがった見方かもしれません。
 なお、日本の誰かが、これは「ジンタ」の音楽だ、と蔑んだという話がありますが、このような軍楽を「ジンタ」として蔑んだのは日本人でありまして、全部日本人が悪いんですね。




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