ベートーヴェン後期は高尚だ、とかなんとか
クラシック音楽(の全て)が高尚だなんて、誰も思っていないだろうね。
作曲について
クラシック音楽を知らない人たちは、クラシック音楽を高尚と思っているのではないかと考えているのであるが、いかがだろうか。ここでいうクラシック音楽とは、とにかく街の大型店のクラシック音楽のコーナーにあるような全てと思ってほしい。バロック音楽のはるか以前から、現代音楽に至るまでの全てだ。それらは、はたして本当に高尚だろうか。なぁんてことは、ほんとに数多く聴く人には自明のことだろう。
そう、特にバロック音楽でさまざまなタイトルを見つければわかるのだそうであるが、私はあまり知らないので各自確認のこと。いろいろなタイトルがあるそうだ。それも聖俗取り混ぜて、じつに多様なのだそうだ。近代でも、たとえばスクリャービン作曲の交響曲第4番「法悦の詩」が有名だ。簡単に言うと「セックスの悦楽を表現した」という曲だ。しかも、かつてロシアやドイツでは「スケベなので演奏禁止じゃ」との圧力があったという、いわば国家のお墨付きなのだ。ほら、聴きたくなっただろう。あるいは、ストラビンスキーのバレエ「春の祭典」の初演は一大スキャンダルだったそうであるが、高尚ならスキャンダルにはならんだろう。どこがどうスキャンダルなのかは私はよくわかりませんけどね。あるいはまた、19世紀のとある時期では政治よりもワルツが大事で、俗に「会議は踊る」といわれたこともあったりしたそうだ。毎夜ワルツで踊るのが好きということは、女性の腰に手を回して見つめ合っているのが好きということなのだろう。このままでは音楽とは関係ないことになってしまうが、ワルツがスケベを助長していると思っておこう。それに、大抵のオペラは女性用週刊誌にも負けないほどの、好いた惚れたのオンパレードであったり、殺したり殺されたりの愛憎劇なのだ。
かといっても、作曲するほうは一応は大まじめ。その1点では、高尚といえば高尚かもしれない。歴史に残るたいていの曲は、至極大まじめに作っているのだ。だいたい不まじめでは、たくさんのオタマジャクシを正確に並べて他人の鑑賞に耐える曲を作るなんてことは出来はしないじゃないか。ベートーヴェンからみれば低俗の極みともいえる例の戦争交響曲ですら、スコアを眺めてみれば、けっこう凝った表現をしていたり、効果的な表現を目指していたりと、いろいろ考えて作られている。
結論、クラシック音楽は、作曲時の心構えはともかく出来上がりは聖俗とりまぜたものだ。高尚なものもあれば、そうでないものもある。とにかくごった煮の文化だ。何だって聴いてみなくちゃわからないけど、曲の内容がどうであるかより、どんな姿勢で作ったのかというほうがはるかに重要なのかもしれない。
演奏について
作曲からしてこうなのだから演奏も同じことで、とある曲の演奏に対して、精神的にレベルが高いとか低いとかを軽軽しく言及するのはどうかと思う。いや、とにかくいけない。
必要なのは、その曲がふさわしい扱いで演奏されているかどうかなのだろう。だから、楽しく演奏すべき曲は思いっきり楽しく演奏すべきだろうし、思索にふけるかのような音楽は、いっしょに考えてあげましょう、というように演奏するのが一番だろう。それって、どんな演奏だろうかね。
たとえば、前述の「法悦の詩」なら、思いっきりスケベにならなくては完璧に演奏できないに違いない。練習時に女性奏者がいたらどうなっていることやら。指揮者が楽員に叫ぶ言葉は、それこそセックス用語の狂喜乱舞になるだろう。練習にあたって女性奏者が演奏拒否!録音は男性楽員のみで強行!などというニュースがあったら、ぜひ聴いてみたいものだ。あるいは「春の祭典」なら、理性をかなぐり捨てるような野生的な表現を要求する場面もあるだろう。指揮者は、そこでどのように自分の音楽を楽員に向かって語るのだろうか。とにかく何を指示していても、表向きはまじめに音楽に向き合っていることになるのだからタチが悪いだ。んだんだ。
とにかく、聴衆がその曲のふさわしい姿を感じ取ったと思ったとき、つまり感動したときに、その演奏が高度なものだと呼んでいいだろう。曲のふさわしい姿を提示してくれることそのものが、その演奏家が精神的に高い境地を示しているというのなら、きっとそれが正しい批評なのだろう。そうなると、スケベであるべきときに思いっきりスケベになりきることができる演奏家こそ、すばらしい! そう、音楽が鳴っている間は、その音楽が要求しない限り、ジェントルマンでなければならない理由なんてどこにもないのだ。もちろん、ひとたび演奏が終われば、ごく常識的な人物であるべきだろうね。
つまり、臨機応変というか君子豹変というか、曲に応じてそのようなことができる人が、求める演奏を最良の姿でできたときに、精神的に高いレベルの演奏ができましたねと評価していいだろう。クソまじめであるべきときにはクソまじめであり、バカできるときにはバカができるということだ。これは別段、音楽に限った話ではないと思う。
(長い! 文章が長すぎるぞ。ここまではいらないかも)
聴衆について
たまに評論などで、精神性を云々する書き方があったりする。精神性に富んだとか、高い精神性にあふれたとかいう言いまわしで使うのだろうか。それはおそらく、クソまじめな(綺麗だけじゃない、何か別の意味がある)音楽をクソまじめ(哲学的、あるいは、何かを考え抜いているかのよう)に演奏した結果、うまく演奏できているから尊いんだ、という意味なのだろうと思う。楽しい音楽を楽しく演奏したら、そうは言わないだろう。うまく演奏できたならそれはそれで良いに決まっているから問題は無いのであるが、問題があるとすればそれは聴き手の側だろう。これまで少々書いてきたように、音楽には、いろいろなものがあるのだ。クソまじめな音楽こそが尊いと思っていたら、大間違いである。だから、わかっている評論家は精神性云々を多用しないはずだ。いやきっと、もっと適切な表現を心得ているに違いないだろう。
まじめな曲をまじめに作ったり演奏したりすることが高尚なのではなく、作曲や演奏に向かう姿勢が適切であるかどうかが問題なのだと思うが、聴くということにも同じことが言えるだろう。同じ芸術に対することなのだから、作曲家と演奏家の姿勢が、聴衆には全く関係が無いはずはない。どこかで同期しているものだ。
かつてブルックナーとマーラーが初めて日本で流行した1980年代には、にわか評論家が乱立して音楽雑誌の投書欄が目も当てられない状況だったことがある。私も読んだ記憶があるが、この人たちは音楽に酔っているんですか、いやきっと自分の(稚拙な)文章に酔っているんですよね、という内容だった。正直、読んでいて間抜けを目の当たりにした思いだ。そのような当時を思い返したある評論家が、最近(21世紀)どこかの本で、あれは異常な状態だったと書いていた。そこには、こんなことも書かれていたはずだ。
ある良心的なファンは「こんなことしか書けないような聴き方はしたくない」(記憶はあいまいであるが)と書いていたそうだ。
当然のことだろう。ブルックナーとマーラーも同じ思いにとらわれるに違いない。なぜ単純に「感動した!」「もう一度聴きたい!」と書けないのか。
これと同じことが料理漫画にあることはご存知のとおり。意味不明の表現の羅列にあふれる漫画だ。しかし、とある料理漫画でこのようなセリフがあった。
「料理人に対しては、褒め言葉はひとつしかない。うまかった、だ」
もちろん、こんなセリフばかりでは漫画が連載できないのも事実だ。また、漫画で料理を表現するには、あまりにも制限がありすぎる。だから、あれこれセリフで工夫をするのはわかる。しかし、口にほおばって「うまい!」と思うとき、本当は「うまい!」としか言えないくらいになるのが理想であると思うし、そんな料理を食べたいものだ。
同様に、良い聴き手というものは、音楽の感想を、思わず言ってしまうセリフをまず持っていきたいものだ。「この演奏はすばらしかった!」と。その後、舌足らずでもいいから、具体的になんとか説明してみたいものだ。「こんなふうに演奏したから、こんなふうに感じた」とか。たしかに文章としてはつまらないものかもしれない。しかし、最終的に感動するのは文章に対してではなくそれが示す音楽になのであって、そんなに言うのならば私も聴いてみようか、などというきっかけになるように感想を書くことができれば、合格点だろう。そういう気持ちに目を向けさせることなく、意味不明の文字の並びに自己陶酔し自己完結してしまう文章を書いたら、危ない存在だ。いや、誰に対して危ないかって、私にでもそれを読む人にでもないですよ。書いている人が自分の無能さをさらけだしてしまうということで危ないわけだ。
そういう、聴衆のあるべき姿が少しずれてしまうと、被害を受けてしまう音楽がある。もちろん、ブルックナーとマーラーのことなんかは書かない。
ベートーヴェンの後期の作品群が高尚だとかいうらしいんだが
いわゆるベートーヴェンの後期、たとえば第12番以降の弦楽四重奏曲であるとか、ハンマークラヴィアあたりからのピアノソナタが高尚すぎてとっつきにくいと言われているらしいのであるが、いったいどういうことなのだろうか。
いわゆる後期でも、ピアノソナタの作曲は1822年で終わり。ディアベリ変奏曲とミサ・ソレムニスは1823年、「第9」は1824年で作曲終了なので、短い曲を省くと残るは弦楽四重奏曲しかない。本当の後期の作品とは、きっと弦楽四重奏曲なのだろう。
そんな後期の弦楽四重奏曲について、とある解説書では「全く新しい世界」「理解しにくいともいわれている」「ときに宗教的であり、ときに哲学的」「どうしても晩年のベートーヴェンの生活、思想といったものを知らなければならない」と書いているが、本当なのだろうか。
少々考えてみればわかるが、この「理解しにくい」というのは、あくまでも相対的なものだ。1820年当時の人からみると、ベートーヴェンの後期作品群をどう聞くかといえば、それ以前に作曲されて、しかも聴くことができた作品と比較するしかないわけで、それらはモーツァルトやハイドンの系列の、ウィーンでよく聴かれるような作品と、当然のごとくベートーヴェンの作品群だ。今のようにCDなどの録音メディアが存在しない時代なので、どれほど聴衆が経験を積んでいるかどうかわからないが、当時の記録を読む限り、ベートーヴェンの後期の作品群に良い評価を与えている人はしっかりいる。聴衆があからさまな拒絶反応を抱いているわけではないのだ。つまり、古典派の音楽の十分な経験さえあれば、ベートーヴェンの音楽を楽しむことは容易なのだと言ってよいだろう。言われてみれば、後期の作品群のメロディーを並べただけでも、とっつきやすいものの方が多いことに気づくに違いない。
ベートーヴェンの音楽を聴くために宗教をかじる必要はないし哲学に目を向ける必要もない。ましてやベートーヴェンの思想を調べることも無用だ。まず音楽を聴き、それでわからないのなら、また聴くべきなのだ。音楽の表現のみで不足であって別に特別な解説が必要だなどとベートーヴェンは思っていない。
しかし現代は全く様相が違っていて、クラシック音楽に限定しても、ロマン派から近代現代にいたるまでさまざまな音楽があって、聴衆への訴える力に富むというか簡単に言えばわかり易いにもほどがあるという音楽が多数ある。ソナタ形式に代表される古典派の形式を打ち破ったというか相手にしていないというか、たぶんきっとついて行けなかったような音楽までも多々あって、そういった音楽は聴衆に容易に理解されやすい方向に進むというか、そういう方向に進まなければ生き残れないので、いきおいそういった音楽に聴衆のほうが馴染んでしまうと、もう戻れないのだ。
そうなるとベートーヴェンの後期の作品群が、なぜだか近寄りがたい存在になるのは目に見えている。
じつはよく聴けばどうってことはない後期の作品群であるが、前述のような、ちまたの批評にも問題がある。いかにもベートーヴェンの音楽が高度で高貴なものだという表現の文章に出会うと、それが彼の音楽を難解だと思わせている第1の原因であるに違いない。それは日本でいえば明治時代からのベートーヴェンの神格化に起因したものなのだろうかどうだろうか。
たしかに出来の良い最高の音楽を言葉で表現するには、威厳のあるような格調のあるような文言を並べたくなるのは当然のことである。しかし、私はそこまで恥ずかしい言葉を並べるつもりはないので、それらの音楽を表現してみるならこうだ。格別にうまいブラックのコーヒーや、冷たい良い味わいのビールのようなものなのである。ちなみに、私はコーヒーもビールもほとんど飲まないので、これはものの例えである。
ブラックのコーヒーや、冷たいビールがうまいと思えるようになるには、なぜだか年季が必要だ。子供ならば「あ!苦い!」、それでおしまいだろう(子供にアルコールを無理やり飲ませてはいけません)。ベートーヴェンの後期の音楽もそれと同じような気がする。しかし、コーヒーやビールは生理的な問題が関わっているようで、しかるべき年齢が来れば、たいていの人は嫌な顔をしないで飲めるようだ。ベートーヴェンの後期の作品を楽しむというのは、それとは少し違うだろうが、それでも、ある程度の経験を積めばいつかはわかるときが来る。
私も聴いていてわかるのであるが、後期の作品は、さまざまな経験を積んだ人の心の動きのいろいろな方向を表現しているようで、しみじみと、いいなあと思う曲ばかりだ。お、しみじみ、というのがちょっと年季が入った人が書くようなセリフかな。つまりベートーヴェンの後期の作品は、落ち着いたオトナの作品であると思う。
若いうちは屋外で活発にスポーツやレジャーなどを楽しむものだ(偏見である)が、それはロマン派の派手な管弦楽を楽しむことに相当するのだろうか。あるいは感覚的なピアノのソロ作品を好むことなのだろうか。一方ベートーヴェンの後期の音楽は、コーヒーか紅茶を片手にイスに座って静かに思索をめぐらせて遊ぶとか、そういう類のものだ。人がいずれはそういう年代になるように、だから、音楽上普通に生きてさえいれば、手が届くようになるにはそれほど時間がかかるものではないのだ。
そういうことで、ベートーヴェンの晩年の音楽は人間として普通に音楽経験を積んでいけば容易に楽しめるものである。また、誰かの文章を読んで音楽を聴きたくなるのはよいが、妙な偏見を自分に取り込んだりしないようにしたいし、感想として文章を書く人は他人に妙な偏見を植え付けたりするようなことに注意したいものだ。
(2008.4)