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生誕250年に寄せて


生誕250年は来年です

 2020年は、ベートーヴェンの生誕250年だ。生誕200年のとき、私は小学生。クラシック音楽には全く縁が無い年齢だった。没後150年は1977年にあたる。高校生だったため、結局のめり込むことはできなかった。そして2020年だ。ちなみに没後200年は2027年で、はて自分はどうなってるかもわからぬ。今は2020年。来年は最初で最後のチャンスである、とはいうものの何をするでもないが。

 最初に聴いたベートーヴェンは、カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団の交響曲第5番、第6番だった。来日記念盤という帯があったような気がするが、それは1973年の来日のことだったのだろう。来日がどうとか言われても何が重大か判断もできない、知識ゼロな年齢だった。あれから46年、今も変わらずにベートーヴェンを聴き続けている。

 ものの本によると、クラシック音楽を好きになるとベートーヴェンあたりから始まって、チャイコフスキーあたりに進んでいくらしいが、自分は全くそんなことは無かった。ベートーヴェンに入り浸って、その周囲をつまみ食いしていた。これが46年続いているのだ。何がチャイコフスキーやねん、いい加減なこと抜かすな。これを書いている今、カラヤンが交響曲第2番を鳴らしている。
 自分がなぜベートーヴェンに入り浸ったままなのかは、考えてもわかるはずがない。ただ一言、性に合っているとでもいうのか。かといって自分はベートーヴェンとは異なり、ことさら努力し極める人でもない。他人と違うことといえば、スコア(総譜)を早くから読みだしたことくらいであろうか。中学生の頃に買ってもらったスコアは交響曲第1番など。今も本棚にある。スコアを読むことが面白いんだョ!という話はここでは続けない。

ベートーヴェン(の楽曲)の魅力とは何か

 これを問われることが一番難しい。歳をとった今ですらはっきり答えるのは無理かもしれない。それはなぜかというと、問う側が意識するベートーヴェンと私の中のベートーヴェンが全く違っているであろうからだ。

 私の中のベートーヴェンというのは、交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲を始めとして、序曲や劇作品、バイオリンやチェロのためのソナタ、各種室内楽、ピアノの変奏曲や小品たち、名も無き合唱曲、そういったものをひっくるめてのベートーヴェンだ。だから、どこかに焦点を当てるととたんにボケてしまう。不確定性原理というやつだ。ミクロの世界で素粒子の位置を測定しようとするとその運動量が測定不能になってしまうように。つまり、交響曲だけを念頭に置くとベートーヴェンの魅力はその側面でのみ表現することになる。果たしてそれはベートーヴェンをどこまで示していると言えるのだろうか。
 さらに、交響曲第5番という、ただ1曲をもってベートーヴェンを語ろうとすることは、私は、正直言うと非常に中途半端なことだと思う。それはたしかにある年齢における成果ではあるが到達点ではなく、経過点でしかないからだ。交響曲第5番の魅力は、ベートーヴェンの魅力の非常に強烈な一面であるが、やはりそれは特殊なのであり、また、あまりにも小さなほんの一部でしかないのだ。とはいうものの、自分がそうであったように、そして、過去の多くの人もそうであったように、この曲を通して最初にベートーヴェンを知った人は非常に多いはずだ。それは認めねばなるまい。しかし、ベートーヴェンを知れば知るほど、ベートーヴェンにはこの曲だけではない、もっと広く大きな世界があるのだ、この曲だけでベートーヴェンを語ってほしくないのだ、ということをどうしても言いたい!という思いにかられる。

 私の思うベートーヴェンの楽曲の魅力とは、エネルギーにあふれる瞬間もあれば優美でおだやかな時間もある交響曲などの管弦楽曲であるし、18世紀の雰囲気を残した管楽器などによる室内楽であるし、19世紀も半ばを過ぎたかと思わせる後期の先進的なピアノソナタでもある。あるいは誰にも見せないような日記に例えられる弦楽四重奏曲もすばらしいし、優美または勇壮な協奏曲だって言及しないわけにはいかない。可憐なピアノの小品はもちろん、文字通り荘厳なミサもある。そして、それら全ての根底にあるのは、古典派という素地である。そこには、はっきりとした拍節感、それは安定したテンポがあり、わかりやすい調の取り扱いと和声進行、わかりやすい旋律がある。その根底はあくまでも素地であるから、当時の作曲家の誰もが持っていたものだ。しかし、そこに+αがある。ただ、そのαは楽曲の種類によって違うのである。
 そもそも、これらの数多くの作品を、たったひとりの人間が作り上げたということが、信じられるだろうか。これは、有名と称せられる曲や、重要な位置づけを与えられた曲を並べてみるとわかる。単に数が多いだけじゃない。様々な種類の曲が、様々な内容で展開されているのだ。そしてそれが彼の生涯とともにはっきりと進化していく。
 これが、総体としてのベートーヴェンの魅力であると思う。彼の後で、ワーグナーは楽劇の道を選び、リストは標題音楽を始めた。ブラームスは悩みながらも交響曲を書き上げた。しかし彼らは交響曲9曲だけを超えられぬと考えたのではないはずだ。他の各ジャンルの曲も含めた圧倒的なベートーヴェンの火力に葬り去られたのである。だから楽劇や標題音楽、ピアノ曲も同様の方向へ流れていったのだ。要は隙間に進んでいったのである。ブラームスの交響曲はどうだったのかと言う人がいるかもしれない。しかし彼の交響曲第1番を聴いても、ベートーヴェンを目指すというよりはどこか変化球くさいし、第2番から後の3曲は、全く違う目標を示しているように見える。というか、正直に書くと後の3曲は真面目に聴いたこともない。

 ベートーヴェン(の楽曲)の魅力とは何か。今のところ誰も尋ねてこないが、答えは、

「圧倒的じゃないか、わが軍は」(ギレン・ザビ)
さもなくば
「この偉容!この壮観!これこそが……………!」(ゼーリック)

どっちも死んじゃったけど、このように表現しておこうと思う。

しかし一般の受け取り方は違う

 今でこそ一般の人でも全体像を言えるようになったが、本来は違う。19世紀から20世紀の後半にかけて、ベートーヴェンとは、やはり交響曲であり、ピアノソナタであり、やや遅れて弦楽四重奏がそれに続く。録音の無い時代、つまり生演奏だけが多くの人々にとっての唯一の鑑賞のチャンスであった時代は長く、名曲ばかりが演奏されるしかなかった。そういう時代を経てベートーヴェンをはじめとする作曲家の多くの作品が受容されてきた。誰かの意見がベートーヴェンの実態の半分すら表現していないとしても、むやみに否定することはできない。そして前述のとおり、自分も最初は同じ入り口に立っていたのだ。

『ベートーヴェンって、重厚な音楽を作る人なんですね』
(ハイハイ、では「トルコ行進曲」を知ってますか?)

『お堅い音楽を作った人でしょう?』
(ハイハイ、でも「エリーゼのために」は聴いたことあるよね?)

 私に面と向かってこう言ってくる人は幸いにして今までいなかったが、これからもいないと望みたい。

これからのクラシック音楽の受容と需要

 生誕200年、つまり1970年を過ぎた頃にはレコードが十分に発達し、ベートーヴェンなど多くの作曲家の全集が発売されるようになった。21世紀の今ではCDの廉売も多くなり、過去の録音を集大成することで、ひとりの作曲家の作品全集も作りやすくなった。
 こういった現状は、買う側にとってはありがたいものの、昔を思い返しながら経済の原則を考えると、いつまでもこのままであるわけではないと思ってしまう。販売形態としてのCDが近いうちに終息してしまうとしか思えない今、クラシック音楽も鑑賞のチャンスが生演奏のみ、となりつつあるように見えるのは、19世紀への逆行なのだろうか。
 幸いなことに、インターネットを通して演奏会のライブを鑑賞することができて、これで一部の人は救われているに違いないが、一般に広く知られているとは言い難いし、スマホで聴くとも思えない。そもそも、今売られているテレビやスマホのような貧弱な音の環境で音楽を聴くことが私には考えられない。そしてこれから、生演奏がクラシック音楽の主体になっていくなら、また、有名な曲しか顧みられない時代になってしまうのだろうか。

 ちょっと先行きが明るくない未来を提示してしまったが、今一度提案しておきたい。

 貴重かつ膨大な過去の演奏録音の著作権を持つ企業は、文化的遺産を埋もれさせることなく、積極的に公開してほしい。これはなにも音楽に限らず書籍や映画にも同じことなのだが、というか、書籍のほうがひどいのだが。

(2019.11.20)


 



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