生誕250年に寄せて3
イグナーツ・モシェレス、《悲愴ソナタ》を知る。
交響曲が、ベートーヴェンを知るひとつの入り口なら、もうひとつの入り口はピアノソナタだ。ピアノを弾こうとピアノ教室に入ると、まずはバイエルとかハノンとか、得体のしれないつまらない音符を弾けと求められる。さて、バイエルとかハノンって誰か? とりあえず、生年没年を記す。
フェルディナント・バイエル 1806年7月25日〜1863年5月14日
シャルル=ルイ・アノン 1819年7月2日〜1900年3月19日
ちなみに、アノンを英語またはドイツ語読みすると「ハノン」になる。
これらピアノ生徒を奈落に突き落とす音符を並べた人は、いずれも19世紀の人。そう、ベートーヴェンより後の時代の人だ。ピアノが現在のものに近くなるように発達したのは19世紀のことだから、こういった練習曲の作曲家が19世紀人であることはわかる。さて、これらの曲で悩まされた後で教師が指定するのは、現代であっても古典派の作曲家になるだろうか。場合によってはバッハの曲が出てくるかもしれないが、モーツァルトとかそのあたりの曲を指定することが多いだろう。これがピアノを習う年端も行かぬ生徒に、喜ばれるものだろうか。
マンガやテレビを筆頭に20世紀から発展してきた娯楽はテレビゲーム機から携帯できるゲームをもたらし、家庭の外まで浸食している。自然、いや街の景色すら注意するでもなく、中には車などに撥ねられて死ぬほどスマホに夢中になる人もいる始末である。日本人全てをバカにするのが目的であるかのような情勢であるが、これはここの本題ではない。そんな、満ち溢れた娯楽に人々が溺れつつある今、ピアノの「かったるい」音符を追うことができる子供は、それだけでも才能かもしれない。その中の何人が、本当にベートーヴェンを楽しむようになるのだろうか。
さて、ここで逸話を紹介しよう。
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その当時私は仲間の弟子たちから、若い作曲家がウィーンに着いたが、異色の作品を書くので、誰にも演奏も理解もできないのだ、ということを聞いた。それはあらゆる規則を無視したバロック音楽(*1)ということだった。この作曲家の名前は、ベートーヴェンといった。私はその名の異才について調べようと、貸出し図書館に行くと、ベートーヴェンの《悲愴ソナタ》が見つかった。これは1804年のことであった。私の小遣いではそれを購うことができなかったので、私はそれを写しとったのだ。その奇抜なスタイルが私を魅了した。そしてそれがあまりにすばらしいので夢中になってしまって、我を忘れて私の先生(*2)にそのことを話したのだ。すると先生は自分の教えたことを思い起させ、もっときちんとした手本にならったスタイルを身につけるまでは、異色の作品を演奏したり勉強したりするものではないと、私に注意した。けれども、彼の教えには注意を払わずに、私はベートーヴェンの作品を出版順にピアノで弾いてみた。そして、他の作曲家からは得られなかったような慰めと楽しみを見つけたのだった。
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引用:ロビンス・ランドン「偉大なる創造の生涯」より
元は、セイヤー/ダイタース/リーマン「ルードヴィッヒ・バン・ベートーヴェンの生涯」第2巻
注釈:
*1 現代でいう「バロック音楽」という区分は20世紀に入ってからのもの。ここでの「バロック音楽」の本当の意味は、誇張、装飾、劇的な効果、緊張、豊饒さや壮大さがある音楽という意味で、そのままベートーヴェンを示している。
*2 プラハ音楽院のベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェベル(1766年10月9日〜1842年12月25日)。モーツァルト派だそうである。
大人気で版を重ねる「悲愴ソナタ」に対し「誰にも演奏も理解もできない」なんてずいぶんな言い草だが、とにかく1804年に「悲愴ソナタ」と衝撃の出会いをしたピアノの生徒は、イグナーツ・モシェレス、ユダヤ人の富豪の息子、チェコの作曲家でありピアニストだ。この時代にバイエルなどの練習曲は生まれていないので、先生から与えられた課題は、もっぱらJ.S.バッハ、クレメンティ、そしてモーツァルトだったという。先生がそもそもモーツァルト派だったというから仕方がない。
ここで一寸注意しておきたいのは、富豪の父親の希望でピアノを習うことになったイグナーツ君、1804年は、まだたったの10歳だったのである。今なら小学4年生だ。
イグナーツ・モシェレス(1794年5月23日〜1870年3月10日)チェコの作曲家、ピアニスト。
イグナーツ君は、(おそらく)モーツァルトに代表される雰囲気の音楽ばかり練習させられていたのであろう。兄弟子がベートーヴェンを探してきたというのも、やはり同じように先生の押しつけに辟易していたのではないかと思う。しかし、ここでわかることは少なくとも「兄弟子は、この曲を弾けていない」、つまり、イグナーツ君は聴いていないのだ。とにかく、何かしら現状に物足りなさを感じていたイグナーツ君のところに新しい音楽が差し出されたというわけである。イグナーツ君は幸運だったといえるが、この兄弟子がいなかったら、どうなっていたことだろうか。
このように、音楽に限らず学習を考える際に、子供に勝手に、しかも過度に押し付けてはいけない。あまりに強く押し付けられるとそれを嫌いになり、全く別のものを好きになるかもしれない。望まぬ方向へ向かう確率の方が高いのではないかと思う。いかに天才モーツァルトの珠玉の作品であっても、10歳の子供に半ば強制的に押し付けてはいけないのである。
そんなイグナーツ君は、(おそらく年上の)兄弟子の良からぬ(?)誘いに乗せられて図書館で悲愴ソナタを見つけたというわけだ。このソナタの出版は1799年。逸話にあるように、兄弟子でもよくわからないというその「問題作」に彼は魅せられた。先生に隠れてでもベートーヴェンを楽しむようになる。そういう意味でベートーヴェンは誰にでも感じる圧倒的なエネルギーを持っているんだよね。
夢のような作品を前にしたイグナーツ少年は小遣いでは買えなかったけどどうしたか。富豪の親に買ってもらえればよかったのにと思ってしまうが、きっと待てなかったのだろう、自分で楽譜を書き写したのである。20分ほどの曲とはいえ、書き写すことは大変だっただろう。しかし全く苦労とは思わなかったろう。ここで、写譜するということは、その曲を研究するに一番良い方法なのだ。書き写していくに従い、曲の構造がわかっていく。そして彼の中で情熱はさらに燃え上がっていったのではないかと思う。
この、10歳の子供とはいえ、イグナーツ少年の本物を嗅ぎ取る才能はすばらしい。後に彼はウィーンに移り住み、憧れのベートーヴェンとも知り合い、それなりに成功した作曲家になったのである。世にピアノをうまく弾く(だけの)神童はかなりいるようだが、曲のすばらしさに感じ入りそれにのめり込むような神童は、はたしているのだろうか。
彼はピアノの楽譜を通してベートーヴェンを知ったのだが、一般の人も同じである。出版するというのは、単に演奏者を相手にするだけでなく、ピアノを弾けない人にも作品のすばらしさを伝えることができた。当時の評論家は、たとえ生演奏を聴けなくとも、楽譜を読むことで曲の評価ができたのである。そして、ピアノ演奏に長けた人は、ベートーヴェンの曲を弾く。出版とはいうものの、現代と違って数百部単位でしか世に出なかったらしいが、その悲愴ソナタは別格で、版を重ねたそうだ。こうして悲愴ソナタはベートーヴェンの名を広めるために、おおいに役立った。
1804年にはソナタ第17番「テンペスト」まで出版されていたが、イグナーツ少年も1802年出版の月光ソナタまでならすぐに出会えたことだろうと思う。ちなみに「悲愴ソナタ」という名は初版の楽譜に刷り込まれていた。
先生から隠れてベートーヴェンで遊ぶ。これまた楽しいのではないか。これもまた、ベートーヴェンにのめり込む幸せな入り口なのである。
(2019.11.26)