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  5. 大権現様の華麗な一夜

大権現様の、わしの音楽を聴け! 第10
「大権現様の華麗な一夜」



 薄暗い町を歩くふたりの男。
 「先生、遅くなっちゃいましたね」
 先生には、耳元ではっきりと話す必要がある。
 「うむ。あの娘が可愛かったからな」(*1)
 晴れた夜空で高くなってきた満月が夜道を照らす。たしかに、明るさには不自由しない。ふたりは、とある貴族の宴で眼とお腹を十分に満足させて、家路を急ぐところだった。ここは住宅街である。どこからか、チェンバロやフォルテピアノの音が聞こえてきた。音楽の都ウィーンでは、どこの家にも音楽が浸透している。しかし、窓から漏れ聞こえるかすかな音は、先生の耳に届くはずもない。先生は耳の聞こえが少々良くないのだ。無論、弟子にはいろいろと聞こえていたが、あえて無視していた。先生が言うところのゴミのような音楽が聞こえたとして、それをいちいち報告していては、先生に怒鳴られるばかりで身が持たない。
 しかし、あの窓から来る音楽は違っていた。

 「ああ、先生。先生の曲が聞こえてきます」
 「どこかね? それは、どの曲だね?」(*2)
 弟子は小走りでその家へ歩み寄り、曲を確かめてから、ここだと先生に教えた。追いついた先生に、弟子は言った。
 「ハ短調のソナタですよ。グラーヴェの序奏がついている」(*3)
 道から窓をのぞくことができた。若い女性が弾いている。最新型のフォルテピアノのようだ。その隣にも女性が立っていて、楽譜を覗き込んでいた。姉妹だろうか。
 「なかなかきれいな娘じゃないか」(*4)
 どちらの娘のことを言ったのだろう。先生は、耳は悪いが、じつは眼も少々悪い。だから、本当に美人かどうかは、間近で見なければよくわからないはずなのだが。しかし、弟子が制する間も与えずに、先生は、おかまいなしに玄関とおぼしきドアを開けてしまっていた。
 「ご免!」
 驚きとともに迎え出たのは、ピアノの前にいた女性ではなかったが、先生が有名人だったこともあって、挨拶とともに美辞麗句をひとしきり浴びせかけてきた。しかし、ここではその内容を省略しておこう。なぜなら、先生がその言葉をほとんど無視していたからだ。時として、先生は実際に耳が聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、わからなくなることがある。やがてピアノの前に通された先生は、そこにいた女性たちに言った。
 「私の曲を弾いてくださって、ありがとう。丁度そこを通りかかったものでね。立ち止まって、聴いてしまいました。お礼に、何か弾きましょう」(*5)
 やんごとなきお方が小一時間も演奏を請い願っても、頑として受け付けなかったこの先生が、なんとまあ、これほどまでにあっさりと演奏を申し出てしまうとは。弟子は、あきれてものが言えなかった。

 月明かりが窓から射し込んでくる。

 椅子に座った先生は、ピアノに立てかけてあるハ短調ソナタの楽譜を見ていたが、やがて、その一部の音型を切り取り、それを主題にして弾き始めた。静か音が流れ始めたのは、今が夜だからなのか、あるいは月の光に敬意を示しているのではないかと思ったが、じつは違っていた。先生は、女性たちを見つめていたのだ。月明かりに浮かび上がる美しい顔、となればロマンチックなのだろうが、さすがに月明かりのみでは楽譜が読めない。皆は、ビアノの上などに置かれた燭台の明かりに照らされていたのだ。しかしそのような明かりでも、先生は十分に満足していたようだ。
 しばらくすると、曲が激しさを帯びてきた。いや、先ほどまでのおだやかな曲は、単なる序奏でしかなかったのだ。そうなると、今はソナタ形式の提示部であろうか。アレグロかプレストかという速度になると、先生の本領発揮だった。先生の視線が女性たちに止まることも無くなり、ピアノフォルテの前にかぶりつくような姿勢で、鍵盤の左端から右端までの全てを自分の世界に取り込んでしまっていた。ただただ、先生は弾き続けていた。

 弟子は、感激して瞳を潤ませている傍らの女性に囁いた。
 「いいですか、お嬢さん。演奏が終わっても、賛美する言葉をまくしたてないでくださいね。感激した表情で、うっとりと見つめてあげれば、きっと明日もまた来てくださることでしょう」
 月の光より、女性の美しさのほうが、数倍も先生を惹きつけるのである。

                この物語は、一応フィクションです。(*6)



(*1)「先生」は可愛い女性が好きなのである。
(*2)「先生」は耳が悪いので、かすかな音では、どんな曲かわからない。
(*3)ピアノソナタ 作品13 「悲愴」。
(*4)重ねて言うが、「先生」は可愛い女性が好きなのである。
(*5)とにかく、「先生」は可愛い女性が好きなのである。
(*6)例のソナタに「月光」という名前を付けたのは、「先生」ではないし、例の逸話は嘘八百。この物語が真実に近いが、一応フィクションである。

(2004.3)



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