大権現様の、わしの音楽を聴け! 第11回
「交響曲しか無いのか?」
(な)大先生の曲を演奏会にかけようとすると、いつも交響曲が推薦されるわけですね。しかし、ここらでそろそろ、交響曲から離れてもいいんではないでしょうか。ということで、小さめの作品でお勧めの曲をあげてほしいのですが。
(大)うん。「エグモント」がいい。序曲だけじゃないぞ。そもそも「エグモント」は劇音楽で、この中に歌曲もいくつかあるから。できれば演奏会で全部演奏してほしいな。そうそう、「エグモント」は、ドイツ語でナレーションが入るんだ。これで、わしの魅力の再発見をしてほしい。歌がついているのもいいもんだぞ。
(な)さすがにナレーションが入ると面白いかもしれませんね。ところで、序曲は演奏会で前座としてよく聴かれます。
(大)だから、その、前座をやめてほしいんだな。わしの曲を他の人の曲の前座として演奏するのはやめてほしいな。次の曲がかすんでしまうぞ。そうそう、よく「第9」の前に現代作曲家の作品を「ご紹介」として演奏する場合があるが、あれはなんとかならんか?
(な)演奏の機会を提供してあげるということで、いいのではないでしょうか?
(大)はたして楽団は、その曲を本腰入れて演奏してくれるんですか、ということだ。もうひとつ、わしの曲を聴きに来る聴衆はそんな曲を相手にしないだろう。それじゃ、作曲家にとっても曲そのものにとっても、あまりにも可哀想じゃないか。
(な)演奏会のプログラムの組み立ては難しいですね。
(大)ナニ言ってるんだ? わしの曲でまとめてしまえば、事は簡単だろう? わしの序曲を演奏して、「第9」を演奏するのさ。まさに初演時のプログラムが、そうだったじゃないか。何も問題は起きない。「第9」の前には、「コリオラン」序曲、「エグモント」序曲がいいだろう。「レオノーレ第3番」も傑作だから、ぜひやってもらいたい。3大序曲は、どれも傑作だ。わしのこの3作があれば、鬼に金棒、どんな演奏会でも、見事に穴埋めしてくれるぞ。知らなかったとは言ってほしくない。そもそも、「コリオラン」のソナタ形式ときたら円熟の極みであって、展開部の工夫は見事なものだ。しかも第2主題はチャーミングそのもの。まさに逸品といえよう!……(小一時間、熱弁が続く)
(な)長い説明でしたが、管弦楽としては3つの偉大な序曲がある、と。そういうことですね。しかし、これら3曲以外では作品が乏しいですね。他に何かありませんか?
(大)ちょっと質は落ちるが、「フィデリオ」序曲、「プロメテウスの創造物」序曲だな。「レオノーレ第2番」もなかなかのものと思うが。
(な)序曲ばかりで、組曲が無いですね。
(大)たしかに、古典派では管弦楽の単純な組曲に相当するものがあまり見られない。実際にはあったが、生き残っているものは交響曲ばかりだ。バッハには管弦楽組曲があるし、ヘンデルにも組曲はある。そして、19世紀ともなれば、さまざまな組曲がある。そのように、18世紀後半に隙間があるように思えるのは、その時代にソナタ形式が全盛期を迎えたからと思っていいのではないか。ソナタ形式を含む管弦楽の組曲は交響曲だ。一方、私は「戦争交響曲」を書いたわけだから、形式にこだわらない曲もあるにはあった。しかし、交響曲といううねりの中で底に沈んでしまうしかなかったようだ。
(な)「戦争交響曲」で形式っぽいところがあるとすれば、フーガが用いられているくらいですね。
(大)たしかに、こうして見ると、交響曲ではない管弦楽曲は、種類が少ない。突き詰めると、私の作品では序曲と「戦争交響曲」くらいしかないな。そうそう、「祝賀メヌエット」というのもあるが、これはご機嫌伺いのような小さな曲だからな。数えちゃいけない。他には、ちょっと毛並みは違うが、バイオリンと管弦楽のためのロマンス(ト長調、ヘ長調)があるな。これは小ロンド形式の小品だ。こういう曲も、演奏会でぜひやってほしいのだがな。他には、舞踏会用の舞曲で、メヌエットやコントルタンツがが何十曲とあるが、今でははずかしくて、演奏してほしくない。これらの舞曲は、弦楽合奏で演奏するもので1曲1分程度のものだ。
今考えたが、序曲を5曲ほどとロマンス2曲で、見事に演奏会のプログラムが成立するじゃないか。どうだ、いっちょやってみないか?
(な)考えておいてもらいましょう。さて結論ですが、本腰を入れた管弦楽作品ということでは、交響曲以外にはほとんど作ってないんですね。
(大)いやはや私としたことが。何でもありの、こんなジャンルを取りこぼしていたとはね。しかし19世紀の初頭になっても、わしの周囲はソナタ形式万歳だった。ソナタ形式さえあれば、交響曲や弦楽4重奏曲、ピアノソナタができる。協奏曲もそうだ。どんな楽器編成の曲でも、ソナタ形式が中心だった。古典派は、すなわちソナタ形式の時代だったのだ。私はソナタ形式を含まないピアノソナタを書いてみたこともあったが、とどのつまり時代はソナタ形式であり、すなわち古今未曾有の展開能力を誇る私の時代でもあった。時代はソナタ形式を必要とし、そこに私がいたのだ。私は幸運だったと言わねばなるまい。
(2004.5)