大権現様の、わしの音楽を聴け! 第22回
「第9の第4楽章は、収まりが悪い」
(大)おさらいをすると、第1、2、3楽章は、わしの管弦楽の集大成である。第1楽章は、ソナタ形式の最大限に活用された姿だ。ちなみにソナタ形式は、後期のピアノソナタの一部に見られるように非常に簡潔にして要を得たものと、第9のように巨大なものの2種類がある。第2楽章はスケルツォの完成系だ。ソナタ形式を包含し、さらにその中にフーガの要素も盛り込んでいる。「スケルツォ」という言葉が含む「諧謔性」のニュアンスは、消えたな。第3楽章は、変奏を盛り込んだロンド形式風と言ってよい。変奏は、無論わしの、ソナタ形式に並ぶ十八番である。
(な)どれもが、その形式の傑作ですよね。
(大)でもな、次の第4楽章は人間の言葉が現れるのが最大の特徴なので、どうしてもその一点に眼を奪われがちだ。そこに問題があることは、初演直後から、皆が言うんだよな。ともかく、聴き終わって改めてじっくり考えると、第4楽章の収まりが悪いのは否めないところだ。
(な)器楽のみの楽章と、声を含む楽章は、決定的に違和感があります。
(大)本来、声ではない楽器の音色と音の並びから何かを感じる交響曲だからこそ、言葉、つまり意味の出現が、もどかしい。だから、わしは、長い管弦楽の部分で前半3楽章の回想までもつけた。それでなんとか回避できたようにも思うが、声楽を導入する積極的理由があるかどうかは、いくらバリトンが果敢に攻めても、理解できないと言えば理解できないな。
(な)「第9」の独唱や合唱の扱いが器楽的だと言うのもありますね。
(大)普通の人は、わかりゃせんのだがな。しかしわしは、基本的に器楽の作曲家であるからだが、では純粋に声楽的に扱えないかと言われると、違う。苦手であっても、やろうと思えば、時間をかければ出来るぞ。器楽中心の交響曲に声を取り込もうとした妥協が、そこにもある。バリトンによる導入を正当化するために、楽章の冒頭で、チェロとコントラバスによる歌うような旋律(レシタティーヴォ)を入れたのも、器楽と声楽の橋渡しをする妥協の産物かもしれない。
(な)もうひとつ、第4楽章には古典派的な形式的感覚が欠けているというのがあります。
(大)そもそも、第4楽章は形式という点では明確に何とは言えない。わし以前は、交響曲の最終楽章のほとんど全ては、ロンド形式とソナタ形式であったな。いやいや、交響曲ではない管弦楽などの組曲ですら、最終楽章にソナタ形式を置くことは少なかった。ハイドンやモーツァルトの交響曲で数えてみればわかるだろう。ロンド形式のような軽い形式が大半を占めている。「軽い」というのは舞曲風という意味でもあり、旋律をいじり回す展開処理がほとんど無いことを示す。逆に、わしは、最終楽章にソナタ形式を持ってくることが非常に多くなった。そして、交響曲などの組曲の重心が、第1楽章から全楽章に均等配分に移り、中には第4楽章に重心を置くこともあったのだ。だからこそ、あまりにも自由な形式で巨大な第9の最終楽章に違和感を感じるのである。
(な)CDなどの解説書を読んでも、第4楽章は、一種の変奏曲形式であるとか、自由なカンタータ形式であるとか、さまざまな説明がありますね。声楽を協奏曲でいうところの独奏楽器に見立て、協奏曲の形式を含む、という見方もあります。でも、どれもが、イマいちなんですよ。
(大)ともかく、大勢の聴衆に聴いてもらってなんぼの曲だから、聴き終わった瞬間までが勝負だ。しかし、単に印象だけで聴衆に受けようとした数多くの曲が歴史の中に埋もれて消え去ったように、一歩間違うと、この曲も、不当な評価が与えられかねなかった。形式感を重視する当時の聴衆、というか、わしの友人だちは、ヴァルトシュタイン・ソナタの第2楽章は長すぎるからやめたほうがよいとか、この弦楽四重奏曲の最終楽章は、難解で長いから取り替えろとか、いつもうるさいんだ。第9の場合も、例外ではなかった。合唱を含む最終楽章を別個の曲として独立させ、器楽による楽章に置き換えてしまう可能性も、あった。もし、わしがもう少し若くて、第5番あたりの交響曲で、このような作品を作ろうとしたら、結果は最終楽章の切り離しだっただろう。
しかし、そうならなかったのは、第4楽章が示す歌詞を不滅のものとするために大変幸運なことであった。楽章そのものが、前半3楽章の回想を含み、密接に関係づけられるようにしたから、というのが切り離されなかった第2の理由だろうか。器楽的に作曲された声楽部分も理由のひとつであろうし、前に何かが置かれていなければ意味を成さない不気味な始まり方などの細かな工夫も、理由にあげられるに違いない。「アンダンテ・ファヴォリ」や「大フーガ」とは、独立して聴けたから、放り出しても問題なかった。
こうした理由があって、この楽章は追い出されることがなかった。そして、それまでの8曲の交響曲という成果の上に、さらに大いに権威づける3つの楽章までもが露払いとして置かれていることで、シラーの歌詞は、歴史的にいやが上にも注目されることになったのである!
(な)今の聴衆は、第9の形式感の著しい欠如に違和感を感じる人は少なくなりましたよ。慣れっこになったというか、交響曲という形式が20世紀前半で崩壊してしまい、形式感はどこへやら。ソナタ形式をまともに作曲する人もいなくなってしまった。19世紀前半の聴衆のように、全体の形式感までも楽しみながら聴くということが、そもそも出来ないですから。
(大)いずれにせよ、「第9」というのはこういうものだ、という感じ方が、違和感無く受け入れられていき、わしの苦肉の策は、功を奏したのである!
※第9がどうしても現在の形式に落ち着かねばならなかったのかは、論理的(Logical)な回答と前論理的(Pre-Logical)な回答が考えられるが、ここでは論理的な回答に絞ってみた。前論理的な回答をご覧になりたい方は、当HPにて、「交響曲第9番に込められたもの」を、お読みください。
(2007.3)