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大権現様の、わしの音楽を聴け! 第29回
「脱「シンドラー」宣言」


脱「シンドラー」宣言

アントン・シンドラーの罪状
・器物損壊(会話帳の多量廃棄、文書の捏造)
・経歴詐称
・虚偽報告

(大)日本人がわしに対して持っている誤った認識を払拭せねばいかんと思う、今日この頃です。
(な)いったい、どうしたのですか?
(大)いやなに、最近、シンドラーの信頼性の無さを改めて思い知ったのだ。あいつはいろいろと裏で工作しておったからな。最近の研究者は、「他の人による証拠が無い限り、シンドラーの記録は何ひとつとして信頼できない」と言い切るくらいだ(末尾参照)。やつは、わしの知らないところで、やりたい放題だったんだな。
(な)聞くところによれば、とにかく、最大の罪は、会話帳の多量廃棄と記録捏造だそうですね。
(大)そもそも、わしも何をしゃべったかなんて覚えていないからな。おまけに、他の人も、何をしゃべったかいちいち記録に残してくれるわけでもない。
(な)その上で、シンドラーは自分こそはという思いで伝記を残したり、会話帳の破棄や書き足しをしたわけですからね。
(大)それをもとに、多くの人が伝記を書いてしまったんだな。たしかに、ほとんどは出典を明らかにはしてはいるが、とにかく19世紀半ばは、やつの言葉に一番影響力があった。「無給の秘書」なんて、すごい肩書きだからな。事情を知らない人は「シンドラーはきっと何でも知っている」と思うに違いない。
(な)無給の秘書では、どこから生活資金を得ていたのでしょう?
(大)わしは給料を出してないぞ。つまり、生活費を稼ぐ間は、わしの秘書をしていないということだ。夜も昼もいっしょにいたわけではないのだ。なのに何でも知っているような思わせぶり。
 あいつの書き残した悪いことは、まず第一にわしの近くで秘書をした期間だ。やつが言うには、それが14年間だという。しかし実際にはせいぜい5年だったのだ。
(な)年数の詐称は影響が大きいですね。そしてその間の出来事を、伝記や会話帳で、捏造してしまうわけですからね。「何も信頼できない」以上、たとえば交響曲第5番を「運命」と呼ぶのもおかしなことですね。
(大)そうだ。例の音の並びを「運命の主題」と呼ぶのも、正直やめてもらいたいものだな。幸い、あからさまに「運命交響曲」と呼ぶのは日本に限った現象ではあるが、普通の日本人は、疑惑の男シンドラーの言葉によって「運命交響曲」と呼ばれるようになった事実を知らない人ばかりだろう。皆、シンドラーに騙されているのだ!
 だいたい「運命」という言葉の元々の意味が強烈で、例の音型そのものまで重い意味を持たせてしまう。おまけにあちこちでこの音型を探そうとする。ばかばかしい。交響曲第5番どころか、他のいろいろな曲の解説にまで「運命」という文字が見える。これはちょっとひどい。
(な)シンドラーがいなかったら、まず「運命交響曲」なんて言葉は存在しませんでしたね。しかし、「運命」とレコードの帯に書いただけでそれが何かわかるのも、ありがたいことではあります。
(大)たしかに、「未完成」「悲愴」「新世界」という並びに「第五」では、それが何かよくわからんことは確かだ。日本だけのことではあるがな。商売上、通称が欲しいことはわかるが、聴きもしない人が「運命交響曲」と呼んでも、なんだかなーと思う。やはり、音楽は聴いてこそ華。
(な)つまり、「ベト5」と呼ぶほうが理にかなっている、と。
(大)そうだ。第5交響曲と書くことによって、わしにもいくつかある第5のうちの最高の第5、世にある音楽のうちでの最高の第5ということなのだ。ちなみに、わしの第5で通称があるのは「皇帝」「春」「幽霊」だ。ほんとに何も知らない人にはシャネルの5番のように香水の名前ではないかと思うかもしれないなあ。
 第5と書かない場合は、ハ短調交響曲と書いてほしい。事情を知っている人は、以前から交響曲第5番か、ハ短調交響曲と表現してくれているものだ。
(な)シンドラーは、ピアノソナタでは「テンペスト」という名も付けたことになりますね。
(大)そうなったのも、あいつが聴く上でのヒントをしつこく尋ねてくるからだ。だから、シェークスピアの「テンペスト」を読めと言った。
(な)どうしてそんなことを答えたのですか?
(大)深い意味があるようなことを言うと、質問をやめるだろうと思ったのだ。しかし、それは間違いだった。あいつは「テンペスト」を読む気なんてさらさら無かったのだ。やつは将来の話のネタを集めていたにすぎないのだ。ハ短調の最後のピアノソナタのことでも、なぜ2楽章しか無いのかと、しきりに聞いてきた。時間が無いからと答えたら、本気になって残念がっていたぞ。やつは、音楽を聴いておらん。
 とにかく、わしの神格化はシンドラーによって始まり、ロマン派の作曲家たちによってさらに祭り上げられたのである。
(な)神格化の何がそもそもまずいのでしょうか。
(大)人の受け取り方、考え方が狭くなってしまうのだ。狭い受け取り方は、狭い結論しか導かない。自由度が無くなる。正しい答えがすぐそこにあっても、それが見えなくなる。もっと自由に、何にもとらわれないで虚心坦懐に音楽を聴いてほしいものだと思う。




ご参考

シンドラー、アントーン・フェリークス
 Schindler, Anton Felix
1795〜1864
ヴァイオリン奏者、ベートーヴェンの伝記作家。一時期はベートーヴェンと非常に親密な関係にあったが、杜撰(ずさん)で何事もでっち上げてしまう性癖が非常に強かったので、最近の研究で明らかになったように、彼が記録したものは事実上、他の証拠によって保証されないかぎり、何一つとして信頼できない。シンドラーは1814年から1827年までの間ベートーヴェンとは親密な友人であったと主張しているが、ベートーヴェンの無給秘書というような形で密接に接触していたのは、証拠が示すとおり、1822年から1824年5月までと、1826年暮れから翌年3月にベートーヴェンが他界するまでの期間だけである。(後略)

  バリー・クーパー原著監修「ベートーヴェン大事典」


(2008.9)



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