大権現様の、わしの音楽を聴け! 第3回
「大権現様の音楽は、構築性がポイント」
大権現様の音楽について
では、いよいよ、大権現様の音楽についてお話ししていただこう。
(大権現様:以下、大)これまでで、わしの偉大さについて一応の基本を話すことができたぞ。すると、いよいよわしの音楽について語るときが来た。ということであるが、ナニから話せばいいかな?
(なかさん:以下、な)この記事を読むのは主に音楽の聴き手ですが、演奏する人も多いのです。
(大)なるほど。わしの音楽は、どう演奏されるべきか、ということについて言えばいいかな。ではまず、練習方法について話そう。ピアノの場合は、正しい指使いと、正しい拍子、正しい速度で、譜面をおよそ間違い無く、ムラ無く演奏できるように練習させる。それがひと通りできたら、次に、表現方法を指導していくのだ。このとき、細かなミスがあってもそこでは止めずに最後までやらせ、それからミスを指導するのだ。
(な)オーケストラの場合も同じですね。
(大)そうだ。この方法こそが音楽家を作るのだ。こういう練習をすると、わしの音楽の何がわかるかな?
(な)はて?
(大)音楽の大きな構造がわかるのだ。まずわしの音楽の構造を知ること、それが大事である。特にソナタ形式だ。主題間の連携、クライマックスへの長い道のり、そういったものを肌で感じ取ることが必要なのだ。たとえば、そこにすばらしい旋律があるとしよう。それは唐突に現れたものではない。その旋律が出現した必然的な理由が、そこに至るまでに記されているのだ。そして、その旋律は新たなパッセージを導く。これを有機的構造という。
(な)それがわかると、どうなるのですか?
(大)自分が、どう演奏すべきかがわかるのだ。わしの音楽は、音色主体ではない。たしかに楽器毎の音色に注意した書き方はしているが、たとえばある部分を「もっと甘い音色で」とか「もっと輝かしい音色で」と自分で勝手に思って演奏しても、全体の流れの中で不適切であれば、それは誤りなのだ。19世紀後半の音楽とは違うのだ。あくまでも古典派の偉大な曲、それが私の曲だ。個より全員のまとまりが大切である。部分ではなく全体のまとまりが大切なのだ。スタンドプレイは嫌うのである。
(な)でも、できればきれいに演奏したいものですね。
(大)そうだ。しかし目立っていけないところは、やはり目立ってはいけないものだ。だからたとえば、クラリネットがクラリネットらしい甘い音色で演奏すべきなのは、本当に数えるほどしかない。
(な)それはどこですか?
(大)たとえば変ロ長調(第4)交響曲の第2楽章第2主題だ。音色を主体に考えるのは、本当に、ここぞというときのみにしてもらいたい。だいたいは、ゆっくりとした楽章のみだ。
そのような限られた箇所以外は、クラリネットの甘い音色などは、それほど大切ではない。音色は、まあクラリネットだということがわかればそれでいいのだ。それより、管弦楽全体としての正しい拍子、テンポ、ダイナミクス(強弱)が大切であり、個々の演奏家としては、全員の中でのバランスと、時間的な流れの中での位置付けなのだ。鼻だけ美しくても美人というわけではあるまい。顔だけ美しくても人間としてすばらしくなかったら、ダメだろう? 全体のバランスが重要ではないかね?
(な)でも、大権現様は美人だったらそれでよかったのでしょう?
(大)うう、見るぶんならそれでいいであろう。しかし結婚は違うぞ。
(な)ということは、大権現様は、自分の人生全体を考えたとき、結婚はいらない、と考えたのでしょうか?
(大)やはり、結婚したいと思ったが……。でも、死んでからもこうして多く人生を見てきて考えると、わしは結婚できなくて正解だったのではないかと思う。わしの人生が満ち足りたら、わしの芸術はどうなっていたことだろう。充足という言葉は、わしの音楽には似合わない。そんな感じがする。わしの音楽は、何かが足りないと苦悶する人の味方なのだろう。わしの作品は、魂を鼓舞するエネルギーがあるのだ。そういったエネルギーを凝集し爆発させるには、構築性の強いソナタ形式が最適だ。
(な)そこがベートーヴェン音楽の特質でしょうか。
(大)そうであろう。わしの音楽は、たゆまぬ努力をしてきたという姿勢を内包しているからな。ソナタ形式のような、構築性の強い曲を得意とするのも、努力を自認している意識がさせるのかもしれない。しかし、それもそのソナタ形式がわし独自の工夫をいろいろと取り込んでいるから可能なのだぞ。
(な)しかし、そういった曲は、じつはかなり少ないのでは?
(大)そうだ。構築性の強い曲は、交響曲やピアノソナタの一部にしかすぎない。しかし、この対話を読む人は、管弦楽を聴く人ではなかったかな? ならば、これでよい。わしの音楽が偉大なのは、構築性の強いソナタ形式を中心に据えているからなのだ。そしてそのソナタ形式は、人の大いなる努力、進歩発展にも通ずるようなエネルギーを秘めることができるのである。