大権現様の、わしの音楽を聴け! 第31回
「ソナタ形式の繰り返し」
(な)ええっと、ベートーヴェンファンさんから質問が来ております。(原文)
大権現様のソナタ形式の作品の提示部の繰り返しについて質問させていただきます。レコードによる刷り込みのせいか、第5交響曲の第1楽章は提示部のリピートあり、第4楽章はリピートなしでないと違和感を覚えるようになってしまいました。ほかにも第3交響曲は第1楽章は提示部はリピートなしが望ましく、第7交響曲は第1楽章、第4楽章ともにリピートなしが望ましいと個人的には考えています。 しかしこれらの刷り込みはレコードで聞いた指揮者がたまたまそのような処理をしているにすぎません。実際の大権現様はリピートについてどのように考えていたのでしょうか? すべてスコアに書いてあるようにリピート指示があるところはリピートして欲しいと考えていたのでしょうか? 例えばカルロス・クライバー指揮の名演である第5交響曲の演奏では、フィナーレの提示部を繰り返すことにより、緊張感が薄れてしまっているように感じられます。リピートせずそのまま展開部に突入したほうが緊張感の維持の観点から望ましいと思いますが、これもレコードの刷り込みなのでしょうか? はじめに聞いたレコードが提示部を繰り返しているものだったらこのようか考えにはならないとも考えれられます。提示部の繰り返しについての大権現様のお考えをお聞かせください。よろしくお願いいたします。 |
(大)全部、繰り返してください。
(な)え、いきなりそれだけですか?
(大)そういう曲の形式なのだから、仕方が無い。そもそも、ソナタ形式でなくても、繰り返しの指示には注意してほしい。
ソナタ形式(*1)は、交響曲に限らずほとんど全ての器楽曲に使われている。弦楽合奏も、二重奏や三重奏も、協奏曲であってもそうだ。
注意深く聴いている人はわかると思うが、わしも含めて数多くのソナタ形式には、常に繰り返しがあった。一見繰り返しの無い協奏曲ですら、じつは管弦楽のみの提示部に続いて独奏を含めた第2の提示部があった。それくらいは、まがりなりにも古典派の音楽をある程度聴いた人なら知っているに違いない。これは、当然繰り返しての演奏を想定して作曲されたことを示している。
ところで、過去の組曲などを聴いてみると、繰り返しというのはソナタ形式に限ったものでなく、舞曲などにも普通にあるということに気付く。
(な)バッハやヘンデルの組曲を見ると、ほとんどの曲がこうですよね。([
]は、繰り返しを示す)
[前半]+[後半](*2)
(大)つまり単純な2部形式で、繰り返すことが様式なんだな。そう演奏することを前提に曲が作られている。ソナタ形式の原型も同じことで、こうなっている。
[提示部]+[再現部]
この中で第1主題がどうとか第二主題がどう、というのは別の話だ。基本はこの形で、再現部を開始するためのつなぎの部分ができると、それが展開部に成長するのでこうなる。わしの場合は、ほとんどの場合にコーダを付ける。
[提示部]+[展開部+再現部]+コーダ(*3)
(な)これでは、長すぎませんか?
(大)そうだ。だからこの構造は、小型のソナタに多い古い形式だ。この形式でなら、わしも作っている。交響曲だけ見ていてはダメで、ピアノ・ソナタも、弦楽四重奏曲も、ピアノ三重奏曲も、その他も全部見てほしいね。そこに、いろいろな例がある。
ただ、この構造はわしの交響曲には無い。展開部が十分に発達して独自性を獲得すると、後半の繰り返し記号が消えることになる。省略ではないぞ。必然的に消えるしかないのだ。よって、次のような聴き慣れた形式になる。
[提示部]+展開部+再現部+コーダ
わしの曲でなくても、かなりの作品がこうなっているはずだ。そのうち、前半の繰り返しが無用であれば、わかりきったようにこうなる。
提示部+展開部+再現部+コーダ (*4)
これは、提示部を繰り返す必要が無いのではなくて、繰り返したら曲がおかしくなるからこうなっているわけだ。繰り返しが絶対に無用なら、そのように最初から書いているのだ。わしが、協奏曲で演奏者によるカデンツァ挿入を禁止したことがあったろう?(*5) わしは、そうしたいと思ったら、必ずそう書く。楽譜では、わしの書いた通りにしろ。
それはそうと、わし自身で面白いなと思っているのは、
提示部+[展開部+再現部]+コーダ
という曲を作ったことで、これがピアノ・ソナタ「熱情」の第3楽章だ。無論、繰り返すしかないな。
(な)ということで、最初の質問の回答は「繰り返しを必ず実行」ですね。
(大)そうだ。繰り返しは、実行すること。省略したいのなら「死人に口なし」だから渋々OKしてやるが、非難の対象にはなり得るぞ。繰り返し記号があるのは、繰り返しを前提に作曲したのだということを忘れないように。
*1 「ソナタ形式」という言葉は、ベートーヴェン以後に作られた。
*2 例:バッハ「エア」(「G線上のアリア」で有名)
*3 例:弦楽四重奏曲第5番第1楽章(1800)、ピアノ・ソナタ第1番第1楽章(1794)、同第25番「かっこう」第1楽章(1809)、ピアノ三重奏曲「幽霊」第1楽章(1808)。弦楽四重奏曲第1番第1楽章は、初稿(1799)がこの形式になっているが、第2稿(1800)では後半の繰り返しが消えている。
*4 例:バイオリンソナタ第7番第1楽章(1802)、交響曲第9番第1楽章(1824)、弦楽四重奏曲第11番第1楽章(1810)、ピアノ・ソナタ「熱情」第1楽章(1805)。以上、カッコ内は作曲年。
*5 ピアノ協奏曲「皇帝」のこと。
補足:繰り返しについて
質問をしてくださったベートーヴェンファン氏も言うとおり、初心者の頃に聴いたものがインプリンティングされてしまう。私(なかさん)の場合は、交響曲第3番第1楽章は、繰り返し無しが好ましいように思える。
これは最初に聴いていたトスカニーニの影響もあるが、繰り返し実行時のつなぎの部分が、冒頭2小節の和音打撃と比べてなんともメリハリが無いという理由が大きい。それ以外の曲で、繰り返しの有無について妙な違和感を感じたことは無い。どうしても「英雄」第1楽章だけが…繰り返しは無いほうが良いと思ってしまう。それくらい緊密に作ってあるということなのだろうか。どうだろうか。
ここで、なぜソナタ形式の繰り返しが議論の対象になるなのかというと、スケルツォやメヌエットの繰り返しよりも、気分的に省略しやすいからだろう。ソナタ形式の提示部は比較的長いし、それが独創的に作られているほど、繰り返しを省略しても足りない分をその楽章自体が持つエネルギーにおんぶにだっこできるのである。
さて、実際にCDなどの録音にあるソナタ形式の繰り返しの省略は、おそらく2つの理由に分かれるだろう。
(1)演奏者の芸術上の解釈で、繰り返しを省略した。
(2)放送やレコード収録の時間的都合上、繰り返しを省略した。
(1)について実際にどうかを知るには、(2)の影響を消すために本人の生演奏を聴けばわかるだろう。今なら、ライブ録音のCD等を聴けばよいだろう。しかし、ライブ録音をした会社が演奏時間を短くしろといちゃもんを付けているかもしれない(演奏者と会社との力関係による)。事実、実演の一部をカットして発売したCDもあるくらいだ。そこまで潔癖に考えるなら、何もしがらみのない、内緒で録音したテープから作った海賊版のライブ録音を聴いてみよう。演奏家が実際にどうしたいのか、わかるのだ。
ここまで書いてみて、ピアニストなら演奏は自分ひとりだから、「今日は疲れたから(早く帰りたいからetc.)繰り返しは無しにしよう」と思って、そうしてしまうこともあるだろうか、と思ってしまった。誰か、やってるかも。そういえば、かつてリヒャルト=シュトラウスが、早く仲間と遊びたいから普段より速いテンポで棒を振った、という話を読んだことがある。繰り返しを省略した、とは書いてなかった。
(2)では、LPレコードの片面の収録時間は音質劣化の関係で無理しなければおよそ30分までなので、CDが無い時代ならば、これに引っかかりそうなら繰り返しを省略するかもしれない。交響曲第5番や第6番は、全ての繰り返しをすると40分を超えるので、片面に入れようと思ったら省略もありえる。CD時代の今なら、そんなことはしないだろう。音質劣化のことを考えなくてもいいので、簡単に1枚80分程度も入るからだ。
例えば1時間枠のテレビ/ラジオ番組に収録しようとした場合にも、繰り返しを省略することもあるだろう。トスカニーニも、放送用録音としてNBC交響楽団を指揮したが、あのガンコオヤジは、そんな理由での繰り返しの省略は絶対やらないだろうなと思う。
2度やるとつまらん演奏であることがバレるから繰り返しを省略する人とか、あるいは、元に戻ると繰り返しがおかしくなるような解釈で演奏している人とかも、いるに違いない。
そう考えると、「繰り返しても全く違和感の無い演奏をする」というのが正解であると思う。
(2009.9.13)