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大権現様の、わしの音楽を聴け! 第3
「もしかして丸写し? 違う、インスパイアよ」



(な)昨年も音楽でパクったのパクられたのとしばし話題になっていましたが、先生もたまに言われますね。
(大)有名なのは、わしの「第9」をパクったといわれるブラームスの交響曲第1番(例1)だな。どちらも上下が狭い音域にあってしかも「歌」だから、どうしてもどこかで似てしまいそうだ(矢印)。CDの解説なんかでは5枚に1枚くらいでそんな解説が載っているのではないかな。
(な)ブラームスは、そういう指摘をする人が多くて嘆いていましたね。

(大)しょせん底の浅い聴衆なんだから、仕方ないだろう。わしはその1小節が似ていたのどうのというより、ブラームスの旋律の後半がたどたどしくて気になったな。似ているかどうかを話題にするというのなら、ブラームスの場合、長い序奏の後でいよいよあの主題が出てきたときに、提示が弦楽器→木管楽器→全合奏と続いていくだろう。わしの「第9」の最終楽章の場合も、長い序奏の後で、低音弦→ビオラ追加→バイオリン追加→全合奏となるのだ。普通はこの点において真似られたとしか思えないが、どう考えたってわしのほうが断然カッコ良いね。しょせんわしの敵ではないってこと。だいたいブラームスは全管弦楽での主題提示で、旋律の後半が崩れていくだろ。
 あと、モーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」がわしの「エロイカ」の冒頭に似ているというのも有名だ(例2)。

 そもそもわしの作品は5小節め(序奏を含めると7小節め)で音に#が付くだろう(矢印)。そこが重要だ。この#のような変化がミソなのだ。こういう音楽の流れの微妙な変化を読めない人が文句を言うんだ。
(な)偶然とはいえ、どうしてこんなことが起こるのでしょう。
(大)それはな、わしの主題の作り方に特徴があるからだ。池辺晋一郎の書籍で、わしの曲について書かれた本(「ベートーヴェンの音符たち」)があるが、そこに言及されている通り、わしのかなりの曲では和音の分散が主題を生み出している。調性が重要視された時代の音楽だから、主題が調を宣言するのは、あたりまえといえばあたりまえ。主題に分散和音をからめると調性の提示が簡単明瞭だ。そこで面白い音型ができたら、そのまま展開にも適したものになる(例3)。ここでは簡略化のために全部ハ長調にしたが、主和音から生み出したものだ。ほら、どこかで聴いたような音型がある。もっとも、こんなことをするのはわしだけではないのだろうがな。
(な)ひとつの和音から、いっぱい出てきますね。

(大)こうしてみると、誰でもわし風の主題が作れそうになってくるから不思議だ。もちろん、その後でどうなるのかが作曲家の腕の見せ所。クラシック音楽で他人の作品の主題を流用してしまうことは多いが、とにかく材料をどう料理してくれるかが本当の聴き所なのだ。
(な)おおっぴらに、「誰かの何かの主題による変奏曲」ていうのが、たくさんありますね。変奏曲は主題提示の次からがその作曲家の作品ということはわかりますが、主題のネームバリューにおんぶしているから、現代なら元の作曲者に権利を主張されて揉めるでしょうか。
(大)いや、現在では変奏曲なんていう種類の曲を作る人がそもそもいないんじゃないかと思うね。少なくとも昔は、他人の曲の旋律を拝借するなんて普通にやっていたことなんだ。もちろんそれがもとで争いになったこともあったが、おおらかな時代であったことは確かだ。
 そういった、旋律を拝借する場合でも、作曲家の元の作品が曲名でわかるなんてマシなほうで、わざと誰かの旋律を拝借して聴衆がどんな反応をするのか探っているかのような曲があるから注意な。音楽的教養を見透かされてしまう。

(2011.2.6)



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