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ベートーヴェンの真骨頂(?)を探そう


ここは、いわば、これがベートーヴェンだねっ!というところを見つけてみようというコーナーなのだ。

ピアノソナタ第1番第4楽章 その味わい深さ
 誰も書いてくれないから書くが、この第4楽章の途中で、ゆったりと下降する実に味わい深い旋律がある。強い意志を秘めたというか、懐のあるというか、文学的に書いても仕方が無いが奥深い旋律だ。こんなところにベートーヴェンらしさを見る。前半3楽章に比べて重いと言う人もいる。


交響曲第3番「英雄」第1楽章の、巨大なソナタ形式(展開部とコーダの充実)
 どこでも言われていることなので、省略する。


木管楽器の無理難題(交響曲第3番「英雄」第4楽章 フルートの長いソロなど)
 特定の楽器に無理難題を押し付けるのも、ベートーヴェンの十八番だ。今のフルートは、いろいろなキーと機械装置の組み合わせで穴を開けたりふさいだりすることが簡単にできる仕組みがあるので、フラットやシャープが多少あってもプロなら簡単なはずなのだが、ベートーヴェンの時代はそのような仕組みが無かった。いわば小中学校などで使う「たて笛」が横になったように指を使う。このような高速の部分でシャープが2個もあろうものなら、けっこう難しかったのではないか。と思ったが、シャープ2個では、たいしたことではないかもしれない。
 交響曲第4番第4楽章のファゴットにも、無理難題がある。


交響曲第3番「英雄」第2楽章 葬送行進曲
 ハイドンやモーツァルトの音楽を聴けばわかるように、当時の交響曲は基本的に「楽しみ」「癒し」のレベルであって、たとえばモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の最終楽章でも、たしかに壮麗さ重厚さはあるが節度が失われていない。逆にト短調交響曲などのように、たった第1楽章のみに憂いを少々含んだだけで特別扱いされるくらいだ。
 だからというか「葬送行進曲」が第2楽章にあるのは、かなりの新機軸だろう。もちろん第1楽章が重厚であるからこそ、そこに置けたようなものだ。なお、ピアノソナタにも葬送行進曲がある。誰かが死んだから葬送行進曲を書いたというわけでもない。


スケルツォの出現は、舞曲臭さを消したかったからか?
 4楽章制の交響曲やソナタなどでは第3楽章はメヌエットになるが、メヌエットは舞曲だ。舞曲は、性格が「おっとり」だ。おっとりしていては、表現力が狭くなる。したがって、メヌエットに替わるものが必要となる。スケルツォだ。要は、何を書いてもいいような楽章にしたかっただけだ。


ピアノソナタ「熱情」第1楽章の、叩きつける音
 ハイドンやモーツァルトの活躍した時代から10年程度しか経過していないにもかかわらず、「熱情」の冒頭近くで叩きつけるような音が書かれているのは、なんともすごいことだ。ピアノ以前の楽器であるチェンバロが弦をはじく、という仕組みであったのに対して、当時急速に発展しつつあったピアノ(ピアノフォルテ)がハンマーで弦をたたく「打楽器」であるということを、はっきりと思い出させる書き方だろう。
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ピアノソナタ「熱情」第3楽章、序曲レオノーレ第2、3番 コーダあたりで突然全く違う旋律が出る
 突如として、それまで全く出てこなかった旋律(ホルンなど)がクライマックスとして現れる。なぜだ。なぜ、そんな旋律が出てくるのか。
 エグモント序曲においての、コーダの旋律がそれまで一度も出てこなかったものということは、コーダになって調を変え、雰囲気を180度変えたかったからという理由で納得できる。しかし「熱情」などでは調が変わるわけではなく、音楽の流れとしての必然性も無い。しかし、雰囲気で強引につないで納得させるのである。(下例は「熱情」)
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交響曲第4、6、7番などの第3楽章の構造
 A-B-A-B-Aの構造であることは別に記載した。第3番「英雄」でも同等の構造にしようとしたが、取りやめたらしいという経緯がある。これにより単純な3部形式はロンド形式と類似の構造に進化した。この構造をとるのは、有名曲ではベートーヴェンのみのようだ。よく知らないが。


ピアノ協奏曲(バイオリン協奏曲の編曲版)で、カデンツァにティンパニ登場
 もう、カデンツァというのは独奏楽器だけに任していても面白くない、と考えたのかもしれない。この編曲版は「皇帝」協奏曲のしばらく前にできたが、第1楽章のカデンツァでピアノはティンパニと踊るのである(例の下の段がティンパニ)。もし「皇帝協奏曲」の次にピアノ協奏曲があったら、同じような、ひとひねりあるカデンツァを持つ作品に仕上がったかもしれない。この取り組みが気に入ったのか、「皇帝」の第3楽章でも採用し、ティンパニとピアノが戯れている。
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交響曲第5番の緊密な(有機的な)構造
 どこでも言われていることなので、省略する。あえて書くならシェンカー著の解説本を読んでおきたい(日本語訳あり)。ただし、かなり読みづらい。有機的な構造とは、わかりやすく言うと、全楽章が切っても切れない密接な関係を持っていることがはっきりと感じられること。逆の例を言うと、ハイドンの交響曲を10個くらい持ってきて楽章を適当に入れ替えても、違和感が無い。


交響曲第5番第4楽章に至る長いクレッシェンド
 さまざまある交響曲第5番の工夫のうち、最もわかりやすい部分が、延々と続くクレッシェンドだ。この頂点にどのような雰囲気の音楽が来るべきかは誰でも容易にわかるが、いざ実際に作ろうとしても、言うは簡単、作るはかなり困難だ。あまりにもベタな流れなので、もったいぶって現れる旋律が中途半端ではカッコがつかないのである。結局そこに置かれているのは、ド!、ミ!、ソ!、と始まる単純かつ勇壮な音楽であって、一度これが作られてしまったからには、もう、他の誰にも同じレベルの音楽で真似はできない。どんな分野でも先駆者の工夫とはそういうものだろう。いわば、やった者勝ちだ。
 ハイドンやモーツァルトでも、この程度の工夫は当然考えたであろうが、音楽的なバランスのことを考えたとき、この前の楽章に密度の濃い重厚な音楽を用意しておく必要がある。貴族の館のお楽しみとして作曲する限りは、やりたくても結局できない話であっただろう。その点、オラトリオなどのドラマチックな作品では可能であったに違いない。
 ベートーヴェン以後の音楽を思い返せば、盛り上がりに至る道と、その頂点で現れる音楽の作曲で、数々の苦労があちこちに見つけられると思う(シベリウスの交響曲第2番、ドヴォルザークの「新世界」など)。
 ベートーヴェンに限って書けば、エグモント序曲のコーダがミニチュアながら同等のレベルの盛り上がりを見せる。

※長いクレッシェンドについては、別のページを作りました。

交響曲第5番第4楽章で第3楽章をもとにした部分が出現
 いわゆる「回想」なのだが、じつはピアノソナタ「悲愴」の第1楽章でも序奏部分が途中で再び現れるので、それを知っていれば、交響曲第5番についてもどうってことはない。第4楽章の冒頭がアレなので、再現部も似たことをしないとカッコがつかないだけである。


交響曲第6番「田園」第1楽章の展開部
 主要旋律の繰り返しで出来ている稀有の部分である。通常はわずかでも展開部にしか現れないような音型があって、それが聴く楽しみになることも多いものだ。しかしこの曲の展開部では、第1主題のわずか8小節分(例の4つのカッコ)で展開部の約140小節を全部まかなってしまうという超荒業を見せている。
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交響曲第6番「田園」第2楽章で、チェロのソロが2人
 ソロが1人いて他の人と別行動をする、というのはまれに見るが、この曲ではソロが2人いて、おもに小川のせせらぎを第2バイオリンやビオラとともに担当する。現在の多くの管弦楽団のように、チェロでも多人数の場合はよく聞こえないかもしれないが、作曲当時の普通の管弦楽団は人数が少なめだったので、けっこうよく聞こえたはずだ。
 残った他のチェロはコントラバスと行動をともにするように書かれているので、必然的に、チェロは3名以上ということになる。


交響曲第6番第3楽章トリオ(ただし後半)は2拍子
 この曲のトリオがどこからどこまでか、というのは一考の余地があるが、2拍子が含まれているのは気づいておきたい。
 第9番第2楽章でも、トリオに相当する部分は2拍子になっている。


チェロソナタ第3番の第1楽章は主題てんこもり
 チェロの深い音色を味わうには、うってつけの曲だ。特にこの曲の第1楽章は、主題(とおぼしきものも含めて)が4つあるという豪華さ。のびやかな旋律や躍動する旋律など、チェロの特徴を生かした独特の良さがある。協奏曲が無いのは残念だが、チェロにはこの曲があるではないか!


バイオリンソナタ(特に第9番)で、ピアノ/バイオリンを対等に引き戻す
 どうも、バロックあたりではチェンバロとバイオリンが対等だったようだが、ピアノが生まれた頃から、ピアノ主体になったらしい。モーツァルトなどがそうらしい(聴かないので、推定している)。ベートーヴェンは、それを元に戻した。


序曲レオノーレ第3番とフィデリオでホルン4本、トロンボーン3本(フィデリオでは2本)
 交響曲第5番でトロンボーンを使うようになったとか、ピッコロが増えたなどと、楽器編成の変化についてよく言われる。逆に、しばらく後で作曲されたこの2つの序曲では、金管楽器が妙に多いことはあまり言及されない。何か特別な理由があるのかといえば、それほどたいしたことでは無く、歌劇の伴奏の都合上楽器が多く揃っていただけのことなのだった。
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序曲レオノーレ第3番 弦楽器全員も木管楽器も第1主題
 通常は、旋律と伴奏に分かれているはずの弦楽器群が、木管楽器も従えて全員同じ旋律を鳴らしまくる(上の例)のは、単なる気持ち良さを通り越して、とても痛快だ。痛快すぎて、「フィデリオ」の舞台が暗く始まることが想像できないほどだ。低音域が伴奏で、第1バイオリンが主題を演奏する、というように、音域の上下で役割を分けているのが普通であるが、この場合は全弦楽器と木管楽器が主題、ティンパニと金管楽器が和音を受け持つという、変わった組み合わせである。
 このような痛快な書き方は、ベートーヴェンでもなかなかお目にかかることはできない。


レオノーレ序曲第3番 中間にあるフルートの長いソロ
 第1主題が爽快に鳴る部分。ト長調なのでシャープが1個であるが、なにぶん動き回りが激しい上に延々と続くので息がもたない。ただ、誰にもわからないように(最後の長い持続音を)二人目の奏者に手伝ってもらうことも、ある程度可能だ。なお、ここは主調ではなくト長調であるが、再現部の冒頭である。


序曲レオノーレ第3番 コーダ冒頭はできる人だけで
 コーダに突入するとすさまじい高速音型が続く。口ずさんでみればわかるように、拍子を無視したかのような複雑な音型だ。楽譜ではバイオリンのところに「2、3人で」と書かれている。十分に練習しないと大失敗をしてしまう箇所だからだろうか。当時のオーケストラは人数を揃えるためにアマチュアも入り込んでいたというから、「できる人だけでやればいいです」という意味なのだろうか。そんな音を平気で書くところがベートーヴェンらしさというものだろう。
 ホフナング音楽祭の名物パロディ演奏では、見事にもつれてしまう演奏を再現している。
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ピアノ協奏曲第5番「皇帝」冒頭
 冒頭で思いっきり目だってしまったという、その後のピアノ協奏曲のあるべき姿を決定づけてしまったような曲。主要3和音が3発鳴るだけでもわかりやすいベタな展開であるところ、さらにピアノがカデンツァを弾きまくる点で、印象の残りやすさでは第一級。やった者勝ちの典型例。
 その後、リスト、チャイコフスキー、グリーグ、ラフマニノフと、曲の冒頭でいかにピアノを印象づけるかで格闘した跡を見れば、有名無名の多数の協奏曲がこの曲の影響をまぬがれなかったであろうことは想像にかたくない。


ピアノ協奏曲第5番「皇帝」他人作カデンツァ拒否
 有名な改革のひとつであるが、協奏曲はこれが最後となったため次はどうするつもりかわからないのが残念である。バイオリン協奏曲の編曲版のようなことをしただろうか。はたして、他人作カデンツァの拒否という試みは良かったのだろうか。現代となっては自作のカデンツァを披露する演奏者が皆無に近いので、結果として他人作カデンツァを排除するほうが良かったのかもしれない。


交響曲第7番のリズムを前面に出した性格
 どこでも言われていることなので、省略する。


交響曲第8番第4楽章のティンパニ
 有名なオクターブ調律による2個のティンパニ。ティンパニによるオクターブの跳躍にはかなりの部分でファゴットが重なっているため、メリハリがあるような無いような、面白い音色になっている。彼は本当に耳が聞こえにくいのか、と疑ってしまう一瞬でもある。


序奏の様々な試み
・調性がよくわからないまま始まる交響曲第1番第1楽章。
・序奏が楽章の冒頭以外でも出現するピアノソナタ「悲愴」第1楽章は、ピアノソナタ「テンペスト」へ発展。「フィデリオ」序曲も仲間。
・巨大化のきざしを見せた交響曲第2番第1楽章の序奏は、第7番第1楽章では主題を2つ持った大型の序奏に発展。
・テンポと調性のみわかればいいということで、交響曲第3番第1楽章では、たった2小節。兄弟分は、バイオリン協奏曲の第1楽章か。
・主題と融合してしまった交響曲第9番第1楽章。
・目立てば勝ちの、ピアノ協奏曲「皇帝」第1楽章。
・前楽章の終結に合わせた、ピアノソナタ「ハンマークラヴィア」の第3楽章。


コーダの様々な試み
・アッチェレランドで始まるフルパワー、怒涛の和音打撃でがぶり寄り=交響曲第5番最終楽章
・コーダが速めに始まったぞ、と思いきや急にじらせたりしてから一気に頂点に=交響曲第9番最終楽章
・浪花節なのか、泣かせようと郷愁を誘うように動くのはチャーミングのきわみだ=交響曲第6番「田園」最終楽章
・オクターブの上下運動はハ長調でしかできない命を賭けた遊びか=ピアノソナタ「ワルトシュタイン」最終楽章
・バッソ・オスティナートで雰囲気作り=交響曲第7番第1楽章は第9番第1楽章へ
・拍子を変えていいのか? 2/4拍子が突如6/8拍子でコーダに=ピアノ協奏曲第3番最終楽章
・主役が死んだことを暗示するかのように消えていく=序曲「コリオラン」
・素材が完全に新規のコーダで筋書きは大団円確定=序曲「エグモント」
・総員突撃で熱血度アップ=弦楽四重奏曲「ラズモフスキー第3番」最終楽章
・疾風のごとく突っ切る弦楽器群が2管編成の限界に挑戦=交響曲第7番最終楽章


連作歌曲「はるかなる恋人に寄せて」でシューベルトへの道を示す。
 結果論にすぎないかもしれないが、複数の歌曲が、いわば組曲となっているのは、シューベルトなどのドイツ・リートへの橋渡しなのだろうか。元々の詩が連作として作られているので、半ば必然的にそうなったようだ。第1曲の旋律が第6曲に現れるのも、歌詞にあわせているため。


ピアノソナタ第30番第1楽章の主題
 ソナタ形式には2つの主題があって、という程度は少々慣れてくればわかるが、どうやってその2つの主題の性格を対比づけるのだろう。それは、調を変えたり、雰囲気の違う旋律を並べることで決まる。別に、速度を変えてもかまわないのだが、ソナタ形式の楽章の次に、ゆったりとした音楽を並べることが通例であったし、第1第2主題が入り混じって展開部を作ることを考えると、第1主題と第2主題とでは、速度は変えずじまいであることが都合がよく、それが古典派の通例なのだ。
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 しかし、このソナタでは、第2主題が、思いっきりゆったりとしたものになっている。それは、ソナタ形式があまりにも簡素な形になっていることと、次の楽章が2拍子のスケルツォになっていることで、バランスがくずれないからでもある。
 チャイコフスキーの交響曲などでは、ソナタ形式の第2主題が思いっきりゆったりとした速度で性格が全く異なる音楽になっているが、こういった先例があるからなのだ。


交響曲第9番第1楽章 ソナタ形式提示部の繰り返しが無い
 ピアノソナタでは繰り返し記号が完全に消えたソナタ形式がけっこうあるが、それは楽章そのものが短めだから、という理由もあるだろう。変ロ長調のハンマークラヴィアは長い楽章で、繰り返し記号もある。
 交響曲では第9番の第1楽章で初めて繰り返し記号が消えた。いわゆる有機的統一ということの影響(繰り返すと、かえって変になる)で消えたわけだ。
 ついでに書くと、古いソナタ形式では、提示部の繰り返し以外に、展開部と再現部をまとめての繰り返しもあった。ベートーヴェンでも、初期のピアノソナタで見つかる。こちらの繰り返しは、展開部を凝った作りにするとすぐに破綻するので、早々に消してしまったのだろう。


非常に息の長い旋律が出現した代表例は交響曲第9番第3楽章
 ハイドンやモーツァルトではゆったりとした楽章でも、旋律が短めなんだ(それほど多く聴いてもいないのに)と断定しておこう。当時はそれが普通だったと思うが、ベートーヴェンから、妙に長い旋律になってきたような感じがする。いやその、そう思っているだけなのだが、確かな証拠は知らない。


交響曲第9番「合唱付」第3楽章の4番ホルン
 4番ホルンが最低音域から高音域まで大活躍。難所もいっぱい。この曲では2種類の調のホルンが用意されているが、調的、音域的に適したほうで、かつ、ベルに手を入れて音を調整することに慣れた奏者が席につくことを考慮し、4番ホルンが担当している。ここまで大活躍するホルンは珍しい。


交響曲第9番「合唱付」で、第4楽章に独唱と合唱
 どこでも言われていることなので、省略する。


(2009/06/25)



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