単発講座「不滅の恋人」
ベートーヴェンを知る人が、どうしても知っておかなければならないキーワードは、「不滅の恋人」だ。これは伝記などで必ず書かれることであり、しかもなんと、死後200年近くなろうとしているのに、いまだそれが「誰」かわかっていないというものだ。
もちろんわかったからといって数多くの曲がどうなるものでもない。わからないから困るものでもない。これまで、「不滅の恋人」というネタで、数多くの研究があり掃いて捨てるほどの本も出版されてきた。そこに、新説が登場した。
「秘密諜報員ベートーヴェン」 古山和男、著 新潮新書
ISBN978-4-10-610366-7
タイトルはスゴいが、内容はベートーヴェンが反政府勢力側にあって、彼なりに行動していたのではないか、というものである。「秘密諜報員」というよりは、反体制派の一人(ただし超有名人)といったところだ。当時の西洋の歴史を知っている人なら、ベートーヴェンがメッテルニッヒ政権を嫌っていることぐらいはわかるはずである。しかし、政府が国際的にも国内的にも日本を混乱に陥れている(2010年5月現在)にもかかわらず、のん気なままでいる私のような人には、メッテルニッヒ政権下で生きることがどれほど苦しいものであるか、とんと見当がつかない。
この本は、@「不滅の恋人」は実は隠喩(それで受けが悪いのなら暗号)であり、発見された手紙はラブレターではないという推定で、A政治的、思想的観点から、「不滅の手紙」を書いた当時にベートーヴェンがどんな考えでどんな行動をしていたか考えたものである。
内容の真偽を判断したいのなら各自読んでもらうしか仕方が無いが、この説の秀逸かつ斬新なのは、@の推定(単なる仮定ではない)であり、いかにもベートーヴェンらしいAが、@にうまくつながるというところである。私にはどうしてもこれを「珍説」とは呼べない。なぜなら、そこにBいまだに「不滅の恋人」が誰なのかわかっていない、という事実があるからだ。
伝記の上であってもベートーヴェンをよく知っていれば、ベートーヴェンが言葉遊びやジョークが好きであることは周知のことである。そこから「不滅の恋人」の手紙が実は別の意味を持った文書であると推測することは、それほどかけ離れた論理ではない。もとより「不滅の恋人」が誰なのかわからないのなら、いっそのこと「不滅の恋人」は実在しないとみたほうが説明が簡単なのだ。この本では手紙を、なんだかダビンチ・コードも真っ青のすごい秘密の暗号入り文書であるかのように読ませるから突飛に見えてしまっている。
それにこの本には書かれていないことがある。シンドラーはベートーヴェンの死後に会話帳を多数廃棄したのは事実であるが、そこに何が書かれているかは、当然のこと不明だ。シンドラーはベートーヴェン(の神格化)に都合が悪いことを隠すために捨てたのだと考えられているが、当時の社会情勢を考えれば、それが下世話なものやエロ方面ではなく、政治的かつ思想的な文面であるとしか考えられない。本当に政治的思想的にマズいことが会話帳に書かれていたのなら、シンドラーはそれを破棄することでベートーヴェンではなくベートーヴェンの友人たちを政治的危機から守ったということになる。これなら、もっともなことであると合点がいく。
他にもいろいろと読者として推測できるネタがあるが、それは読んでからのお楽しみだ。ちなみに、この本の元になったのは、同じ著者の2003年の論文であるから、「不滅の手紙」=「暗号入り文書」は、ダビンチ・コードよりもずっと前から考え練られていたものである。
(2010.5.16)