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カラヤン=中庸


 ここ数ヶ月、エグモント序曲の多数の録音→弦楽四重奏曲(No.11,12,13)の多数の録音→弦楽三重奏曲と聴き続けてきたところで、今はカラヤン指揮の音楽をまとめて聴いている。(2008年4月)
 ご存知のとおりカラヤンは物故してけっこうたつが今年(2008年)は過去の録音の一斉発売が目白押しだ。けど、買う金が無い。とりあえず手持ちの録音を聴く。カラヤンのどの演奏がよいかはいろいろ取り沙汰されるが、私の趣味の範囲で言えばR.シュトラウスの交響詩が良い。そうそう、管弦楽の小品も良い。いつも狭い範囲の音楽ばかり聴いているので、ちょっと気分を変えてカラヤン指揮ベルリン・フィルでのベートーヴェンではない音楽を聴くと、これがいい。「ウィリアム・テル」「セヴィリアの理髪師」とか「詩人と農夫」序曲はじつにうまいと思うし、フィンランディアやフィンガルの洞窟、幻想交響曲やシェエラザードもうまい。くそう、うまいなこいつらと思ってしまう。
 カラヤンは小品の演奏が絶妙にうまいというのは以前から言われていたことで、オペラの間奏曲こそがベストだとか推す人も多いが、ここではベートーヴェンのことのみに限定しておきたい。

 私がベートーヴェンの交響曲とか序曲を選ぶとき、どういう観点で選ぶのかというと、部分が全体からみて違和感が無いかどうか、ということだ。もしある部分の解釈が一風変わった音になって響くと、それが尾を引いて全体の印象を悪くしてしまう。凝り過ぎると、そこだけが気になってしまい全体を聴くことすら忘れてしまう。もしそれが生の演奏会であるなら、部分で少々凝ったことをしても全体の勢いでうやむや(?)にしてしまうことができるかもしれないが、録音物はそうはいかない。2度めに聴いたときも良い印象を持ってもらわなくてはいけないからだ。
 大抵の指揮者/演奏家はその程度のことはわきまえているようで、スタジオ録音として入手する大抵のものはそれほど凝ったことを「部分」でやってはいない(と一般的に思う)。私が聴く範囲で限れば、じつはカラヤンもそういう点で同じ仲間である。そうでなければ、何度も聴いてもらえる作品にはならない。缶詰音楽と揶揄されるCD(昔はレコード)であるが、そういうメディアの特徴をうまく活用できる商品にすることに長けていれば、購入者からも発売者からも喜ばれるものだ。
 逆に生演奏ではスタジオ録音で出来ないことをやる演奏家もいるようなことを聞く。カラヤンは、どうだったろうか。昔FM放送で生中継をしていて聴いたこともあったが、もう記憶の範囲外だ。しかし、そのような期待可能な意外性が無かったら、人は何を体験するために演奏会へ行くのだろう。レコードと全く同じ解釈で演奏会をまとめてしまうのなら、どこにワクワクドキドキがあるのだろう。コンサートはコンサートという、そしてCDはCDという商品(さもなくば自己表現の場)であることは私が言うまでもないことなのだから、それらに適したように自分の解釈が2種類あってもおかしくないわけだ。

 指揮者がどのように曲をまとめあげていくのだろうか。私も短い時間ではあったがアマチュア・オーケストラにいたのでほんの少しだけわかるが、楽員に対して曲の全体像を明確に説明することは無かった。練習ではやはり、音が揃っているかどうかとか、楽器間のバランスがどうとか、旋律をどう演奏するかという、つまり曲の部分が先に立っている。
 そりゃ指揮者の中では全体像ができあがっていると思うが、練習では全体像をとうとうと説明するわけではないし、説明したところで楽員がそれをそのまま音に盛り込むわけにはいかないから仕方が無いのかもしれない。
 しかし、練習が多数の部分の積み重ねに固執され、しかもその指示があまり個性的であると、聴いた上では全体が見えない、バラバラの部品でできた音楽ができてしまうんじゃないかと思う。それが悪い方向に進んだ場合に、私はそれをクセのみが妙に際立った音楽として聴いてしまうのだろう。楽しめなくなってしまうのだ。ベートーヴェンは古典派の音楽で、構築が基本の音楽だから、部分が気になるようではいけない。そもそも、お化粧すればよい音楽ではない。
 そういうことで、結果として意味なく、たとえばこんなこと(譜例の、クレッシェンドとディミヌエンド)をする演奏は嫌いなのである。金返せ。
sym5-4-a.gif (13627 バイト)
 カラヤンは録音物を大変に深く考慮していた指揮者だ(そうだ)。企画立案から録音、売り方、さらにはジャケットなどで使う写真ではカメラが写す方向にまでも注意を払ったそうだから、尋常ではない。それだけでも、彼の残した録音物は聴く価値があるだろう。つまりなおさら音楽は丁寧に作られていると思うのだ。実際に聴いても、そうだ。指揮者の中には、CDの解説書に自分のことがどう書かれ、どういう謳い文句で売られているかすら知らないという(あえて書くと)【バカ】指揮者もいるくらいなのだから、カラヤンのように購入者や発売者のことまでも考えてくれることは、ほんとうにありがたいと思わなければいけないだろう。そうだろ、デル・マー先生。

 フルトヴェングラーに代表される巨匠が、交響曲第5番の例の主題を全体と比べて遅めに演奏するというのは、よくある演奏手法だ。一方、カラヤンはフルトヴェングラーの対極にあるかのようなことをよく言われる。
 しかし、カラヤンとて例の主題を常に全体と同じ一定の速度で演奏するわけではなく、要所では違和感を与えない範囲でさりげなく遅く演奏しているし、その直前でリタルダンドもしている。スポーティーな印象を与えるカラヤンであるが、なんだ、程度は違いこそすれやっていることは同じではないか。もちろん、たった1箇所だけ比べて違うとか同じとかと判断してはいけないが、結局はカラヤンも同じ時代を共有した人だったということなのだろう。最終的にどのようなベートーヴェンを聴かせるかという点では大きな違いはあるが、私からみればきちんとした全体像が見えるベートーヴェンを演奏できているという点では、さして違わないと思う。でなければ、ベルリン・フィルでベートーヴェンを演奏しないだろう。今の小粒の指揮者よりははるかに過去の巨匠の流れを汲む(大型オーケストラ系での)演奏ではないかと今さながら思っているのだ。

 ただ、これだけは言えるのだが、音楽経験が浅い人ほど最初にフルトヴェングラーを聴いた後でカラヤンを聴いたら、物足りないだろう。カラヤンを聴いた後でなら…誰の演奏でもなんとかなるもんだ(おっと、私の場合、メンゲルベルクだけはいただけなかったが)。中庸、普遍的、さもなくば最大公約数的な指針というのは大切なのである。カラヤンは、そういった指針を出してくれる数少ない指揮者のひとりである。大型オーケストラ系での、という点に若干の注意が必要であるが。そして、その音楽が広範囲で、しかも多数の録音にまで気を遣ってくれるのだから、結局は唯一無二なのだ。


・ひとこと断っておくが、「中庸」「普遍的」「最大公約数的」とは、「あたりさわりのない」という意味ではない。
・また、録音(つまり、それを聴く人たち)のことを考える比重が小さい演奏家が多い、ということも事実だろう。
・録音物を聴く人が、他の指揮者についてカラヤンを基準に上か下か別方向か、と考えることになってしまったら、寂しいことである。

(2008.5.1)



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