カツァリスの超絶技巧で聴く
およそベートーヴェンの交響曲を好きと言う人なら、必ず聴いてほしい音楽がある。それは、カラヤンでもフルトヴェングラーでも、あるいはその他の指揮者の演奏でもない。カツァリスの演奏なのだ。
そもそもカツァリスはベートーヴェン弾きではないピアニストだ(強いて言うなら、リスト弾きなのだろうか)。しかし、彼が演奏したリスト編曲のピアノ版全9曲はピアノソナタ全32曲の演奏に匹敵するほどのもので、それだけでベートーヴェン弾きと呼んでもいいだろう。
ここで、リスト編曲という意味について少々書いておきたい。ポイントは2つに集約される。
・ベートーヴェン→チェルニー→リストというヴィルトゥオーゾ・ピアニストの直系。
・作曲家として著名。
チェルニーの弟子だというだけなら別段珍しいことでもないのだろうが、(真実かどうかはともかく)ベートーヴェンに褒められたという経験を持つリストが超絶技巧を誇るピアニストであり、しかも優秀な作曲家だったというところがすばらしい結果をもたらした。逸話を読むとわかるが、ある時期のリストの演奏会の曲目は自作とベートーヴェンの交響曲ばかりだったということもあったそうで、そんな人が編曲したピアノ版交響曲が、すばらしくないわけがない。
私が物心ついた頃(1980年頃まで)にあった録音はといえば、グールドの弾いた交響曲第5番、コンティグリア兄弟が弾いた2台のピアノのための「第9」(これもリスト編)のみであった。調べると、ピアノ版交響曲第8番というのもあったらしいが、入手できるような代物ではなかった。リスト版はその2曲以外、幻であり続けたわけだ。
わずかに流通していた2つの録音についていえば、グールドの交響曲第5番は第3楽章以降が異様に遅いし、コンティグリア兄弟盤は子供心にも緊迫感というか、心に迫るものは無かった。どちらも、ただ単に面白いというレベルでしかなかった。
しかしアナログ録音末期の1981年、突如として出現したのが、カツァリス演奏による「田園」交響曲のLPレコードだった。その後、あれよあれよと数年のうちに全9曲が揃ってしまったのだ。このような全9曲を揃えるという行為は、値段の高い買い物ゆえ、演奏に感心感動し興奮と期待の中でじわじわと数年間も続いていかなければ挫折してしまうものだが、まさにカツァリスの演奏は、それに耐えうるものであった。最近は、そんな買い物が滅多にない。
現在(2008年)ともなれば、演奏至難のピアノ版ですら何人かの奏者で発売されるようになった。たしかに、これらにもリストの編曲版そのままを演奏したものという価値はあるが、しかしカツァリス盤は、演奏の困難さを考慮したためかリストが省略した音を、スコアをもとに補足して音符の上での完璧ささえも目指しているのだ。たたでさえ演奏困難な楽譜がさらに難しい、いや、さらに音が管弦楽に近くなっている。私にはカツァリス版さえあれば他は無くとも良い。なによりカツァリスの演奏には、余裕と詩情が感じられるのだ。うれしいじゃないか。
ここでうれしいポイントを、一部はこれまでの繰り返しになるが説明しておこう。もちろん、カツァリスの演奏そのものがうまい!ということは当然のことであるが、その上さらに…
(1)足りない音は極力追加
どう考えてもわかるように、多数の楽器がある管弦楽を10本の指しかないピアノに移し変えると、涙をのんで消してしまう音が出てくる。それを、可能な限り救済するのが、カツァリスの演奏だ。どの曲でも、そんな音があちこちにちりばめられているので、とにかく春秋社版のピアノ楽譜を読みながら聴くしかない。
下例は「田園」第1楽章の第1主題後半。ここで右手に、書かれていないはずの音が聴こえる。決して多重録音ではない。
(2)省略は元に戻す
前項と同じといえば同じであるが、あまりの困難さゆえに簡単に記譜してしまったものを、元に戻している。
特に第8番の第4楽章は、リストでさえ記譜をためらい本来の6連符(3連符×2)を、4連符にしてしまっているが(*)、カツァリスは本来の6連符のまま全てきっちりそのまま演奏してしまったという、恐るべきもの。下例は第4楽章の冒頭で、最初ですでに2本の指で交互に音を出す6連符に書き直されているが、カツァリスは2本の指で同時に叩く。しばらく後の3段め、左手は3連符をやめてしまっているが、カツァリスは3連符のまま押し通す。まさに伝えられているとおり、ツメが割れ血が滲むほどの努力による演奏で、とても演奏会ではできない。ピアノもベストの状態でチューニングされている必要がある。まさに録音物であればこそなし得た演奏だろう。
(*)6連符のままでは誰も演奏できずに購買者からクレームを付けられてしまうからだろう。つまり、それくらいの超絶技巧というわけ。でも、4連符に変えてしまっては、それはそれでクレームものかもしれない。
(3)繰り返しの実施と、Ossia.への配慮
ソナタ形式などでは繰り返し記号があるが、カツァリスは極力繰り返しをする(*)。しかもそこにOssia.(代案とでも訳せばいいか)があれば、それも演奏してくれるのだ。繰り返しの部分だから、2種類の楽しみ方ができることになる。
もちろん、本来の音の流れである原譜に従って演奏してほしいと思うが、演奏が難しかったり、旋律によっては一気にピアノ的に訳してしまうほうが雰囲気的にマッチする場合もある。その場合のリストの考え方がわかるOssia.も聴いてみたいと思うので、それが実現できているのは、うれしいことだ。
(*)2008.7.26現在、全てを聴き直して確認したわけではないが、繰り返しを全部演奏しているようだ。
(4)速度が、どれも一般的なもの
難しい譜面は、速度を遅くすることでなんとか技術的なハードルを下げようという逃避行動に駆り立ててしまうが、カツァリスはとにかく「どこにでもある演奏の普通の速度」で全てを弾きこなしている。速度の面でも違和感の無い演奏だ。
とにかく、一聴の価値がある演奏だ。
(2008.7.26)