単発講座「やつこそ最強」
ベートーヴェンは時代を超えて聴き継がれる
難しいゴタクは並べたくないけども、と。
とにかく、ベートーヴェンは不滅なのだ。どのように不滅であるかというと、ベートーヴェン以後に生まれた曲たちは、ベートーヴェンの存在なくして存在意義は無いのである。時間の流れがそうなっているのだ。
ベートーヴェンがいなかったら、ワーグナーの楽劇は、もっと違った形になっていた。ショパンの小品集は、小品1曲1曲として存在できたであろうか。ピアノ音楽が、チャイコフスキーやラフマニノフに代表されるような、あれほど豪華なピアノ協奏曲を生むに至っただろうか。弦楽四重奏曲に至っては、もっともっとたくさん書かれたに違いない。ただし、お気楽な音楽の割合が多かっただろう。
だいたい、交響曲という曲種ひとつとっても、ブラームスはもっと気楽に10曲くらい書けたであろうし、ブルックナーの曲は全く違った始まり方になっただろう。マーラーも、「いつか自分の時代が来る」などとほざくことは無かっただろう。ショスタコービチも、政府に気兼ねなく書けただろう。交響曲を避けていたR.シュトラウスも、4楽章形式の交響曲をいくつか書いただろう。ベルリオーズの幻想交響曲は、もっと違った形態になり、孤高の作品として君臨していたかもしれない。
少し想像すればわかるように、歴史のある時点で大きな変化があった場合には、非常に長期間影響が残る。
話はずれるが、SF作家アイザック・アシモフの「永遠の終り」という作品がある。歴史を都合のいいように変えてしまう「時間管理機関」という組織の話であるが、そこでは、ある事件を発生(歴史を変える)させると、その影響がおよそ25世紀の間拡大し影響を与え、次の25世紀で影響は沈静化していく、という設定になっている。つまり、ある1つの事件は50世紀の間、影響力を持つということだ。まさに、それと同じようなことである。現在のみならず、今後数世紀数十世紀にわたって、ベートーヴェンの影響から音楽は免れ得ないのである。情報の保管、流通が不備であった17世紀以前ならともかく、今は、世界中にベートーヴェンがある。今までも、これからの作曲家も、ベートーヴェンの手のひらから逃れる術はないのである。孫悟空がお釈迦様の手のひらから逃げられないという話そのまんまである。
また少し話ははずれるが、ある作家のある作品(要は、忘れたのだ)で、完全に音楽の歴史から隔絶して作曲家を育てるという話がある。音楽の才能がありそうなひとりの人間を、幼少の頃からある地域に隔離する。そこには、ピアノのような楽器はあるが既成の音楽はない。ベートーヴェンもバッハも、何もなしである。そして、その人間が楽器で演奏した音楽を盗聴し、ひそかに愛好しようというものである。さて、この主人公は、いろいろすばらしい歌を作っていくのだが、あるとき、たしかバッハだと思うが、バッハの音楽を聴いてしまうのだ。本当にバッハだったかな? いや、バッハでなかったら、私の話が進まないのだ(笑)。その音楽に衝撃を受ける主人公。彼の中で彼の音楽は変質していくのだった。という筋書きである。これは、現代の音楽が、いかに過去の遺産なしでは生み出され得なかったかということを示しているのだ。
そういった点では、モーツァルトは少し違う。天才であることには違いないし、名曲が多いことも事実。しかし、音楽の歴史への影響力はあまり無い。あれほどすばらしいのに、音楽の進化という観点からみた場合には、モーツァルトの存在は少しも重要ではないのである。その時点での音楽の枠の中において活躍し、枠から逃れられなかったのである。とはいうものの、若くして亡くなったのだから、そこまで期待してはいけないだろう。であるから、小説の中で、音楽の歴史から隔離された主人公が聴いてしまう音楽は、モーツァルトではなくバッハだったのである。ベートーヴェンではなくてバッハなのはどうしたわけか?! と思われるかもしれないが、バッハは余計なものがないからよいのである。小説では、音楽の基礎の完全な実現体であり、かつ音楽の持つ可能性の全てを示唆できるような存在として、という意味でバッハが登場したのだろう。であるから、一見無味乾燥なバッハの基礎という上に、主人公はそこに自身を盛り込むことで曲を変質させていくことが可能になるのだ。筋書き上、最も適切なのはバッハである。そういうことでは、ベートーヴェンは曲の内面はもちろんのこと、外面、つまり曲の形式も進化させていったし、感情も盛り込んだ。小説の主人公が耳にするには、大きすぎるのである。
話は大きくはずれてしまったが、それくらい、既成の作品というものは大きな影響力を持っているのだ。ベートーヴェンが存在している以上、決して無視できない。避けて通ることはできない。ベートーヴェンを無視すること、避けて通ることは、ベートーヴェンを知っていることと同じである。つまり、自分に対しての影響力の大きさを知っているということだ。そうした状態で、どこまで自己を自由に表現することが可能になるだろう。そういうことで、いわゆるクラシック音楽が崩壊し、調性も、形式も、楽器編成も何もかも解体されてしまい、現代になってみれば大編成で純然たるソナタ形式を持った交響曲が生み出されなくなってしまったのは、ひとえに、ベートーヴェンの存在が理由なのである。
もしベートーヴェンが第2交響曲までで作曲を終えていたら、音楽の歴史は全く違ったものになっていた。これは絶対に間違いないのである。しかし、ベートーヴェン以後の作曲家が交響曲の名曲を1つ2つ作らなくても、歴史は変貌していかなかっただろう。それぐらい、ベートーヴェンは凄いのである。
2つの世界大戦が起きたこの20世紀は、物質文明が栄華を誇っているが精神文明は見事に退化しているように見える。クラシック音楽が崩壊したことと期を一にしていることを、不思議に思わないか。今こそ、ベートーヴェンを正しく聴く時代が来たのだ。貴族政治が崩壊し市民による政治へ変革していった時代に生きたベートーヴェンの音楽が、何をアピールしてきたか。原点に戻ってみるべきなのだ。健全な精神文明あってこその物質文明である。ベートーヴェンのような人間の魂あふれる音楽を聴かずして、どうして21世紀を迎えることができようか。